top of page

2020年11月29日以降の「先週説教要旨」はFacebookページに移動しました。

https://www.facebook.com/tsushilo1967

November 21, 2020

先週説教要旨 2020.11.22

先週説教要旨 2020年11月22日 

「来なさい、休ませてあげよう」(三要文・十戒⑩)池田慎平牧師

  出エジプト記第20章8~11節

              マタイによる福音書第11章28~30節

  

  十戒はその第四番目の戒めで、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と神はお命じになります。そのように、第七の日を「安息日」という名で心に留めること、そして聖別、すなわち聖なるものとする、神様のものとしてその他の日と区別することを命じられています。その根拠として、「主の安息日」(9節)、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)、すなわち主がお休みになられた出来事を上げています。主はおひとりで休もうとはなされないのです。私たちを休みへと招かれる。この戒めは、いつのまにか自分では正しく休むことを見失ってしまった現代の私たちに対して、神からの「こっちへ来て、一緒に休もう」との招きの言葉です。

 真の休みへの招きは、イエス・キリストを通して成就されます。主イエスもまた、いや父なる神に従う独り子イエスこそ、私たちを真の休みへと招く、安息日の主です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書第11章28節)。神は私たちのすぐ近くへおいでになってくださるばかりではなく、私たちの最も深いところに触れてくださり、私たちが手離すことのできなかった罪という重荷を負う犠牲を自ら担ってくださいます。主イエス・キリストの十字架と復活は、まさに私たちがまことに重荷を下ろして休むことが出来るようになるためであったのです。ユダヤ教では土曜日が安息日だったのに対し、キリスト教会が日曜日を安息日としたのは、日曜日に主イエスが復活なさったからです。日曜日こそ、神が私たちの罪に、私たちの死に打ち勝たれ、私たちがようやく神の御前で安らかな息をつくことが出来る日です。そして、その神の御前にある休みを、共に祝うように招かれています。

November 14, 2020

先週説教要旨 2020.11.15

先週説教要旨 2020年11月15日 

「出会ったことが全て」池田慎平牧師

      使徒言行録第9章1~9節

 

 後にキリストの伝道者となった青年サウロの回心の物語を読みました。この箇所を読むときの注意点は、この物語をサウロ個人の資質や努力の物語として読むのではなく、ここで働かれているのが生きておられる神の御業であることを知ることです。ここで起こっていることは、その熱心が邪魔者を消し去るという方向へ向いた一人の若者が変えられて、平和の福音を携えた使者へとなった物語です。変えたのは主御自身であり、神様です。

 サウロが使徒言行録に初めて登場するのは、キリストの弟子であったステファノが迫害の末処刑される場面です。「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」(第7章58節)、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(第8章1節)。サウロ青年がその熱心さゆえに、キリストの教会を迫害することに賛成していたことは疑う余地はありません。サウロの回心をわかりやすく理解しようと、良心の呵責や信仰への疑いといったサウロの心の機微を読み取る人もいますが、しかしサウロ自身は「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」(第9章1節)いたのです。それだけではなく大祭司のところへ行って、キリスト者たちを逮捕する権限を手に入れ、公にこのことを行うために手を回すという用意周到なことまでしています。私たちの目にはこのサウロが変わる余地など発見することはできません。

 サウロはなぜ変わったのか。それは生きて働かれるキリストが直接彼の名を呼び、「あなた」と「わたし」という関係のなかで出会ってくださったことによるでしょう。「かいしん」は「改心」ではなく「回心」です。神が回してくださる心です。「なぜわたしの教会を迫害するのか」ではなく、「なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけられた主によって、サウロはそれまでの自分に死に、新しい使命を与えられて生きるようになったのです。

November 07, 2020

先週説教要旨 2020.11.8

先週説教要旨 2020年11月8日 

「もはや姿を見なくても」池田慎平牧師

     使徒言行録第8章26~40節

 

 津示路教会の牧師として教誨師の働きを与えられ、刑務所に遣わされた時に話したことの一つに、「聖書はあなた宛ての愛の手紙です」ということをお伝えしました。聖書を読む方法はいくらでもあります。歴史的な文書として知識を得るため、世界中で読まれている書物として一般常識を身につけるため、キリスト教の正典として重厚な思いで。しかし、聖書は何より「私宛て」のものとして読むことが読み解くために大事なことです。

 今日開かれた聖書には、エチオピア人の高官の宦官が登場します。彼は父なる神を信じる者でありましたが、異邦人でなおかつ律法では礼拝することを禁じられた者であったため、神殿参りをしても神殿に参ることも出来ず、救いを求めながらも、どこか寂しい思いで帰路に着いていたのです。彼はどこで手に入れたのか、旧約聖書のイザヤ書を手にしていました。それを朗読しながら(当時はまだ黙読という習慣がなかったと言われています)、これはいったいどういう意味かと考えあぐねていたのでしょう。そこに主の天使から遣わされたフィリポが走り寄ってきます。「読んでいることがわかりますか」というフィリポの問いかけに、「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と宦官は答えます。そうです、聖書は一人で読んでいても開くことが出来ない宝の箱のようなものです。

 ある牧師は、聖書を自分宛てのメッセージとして読むコーチは七人もいます、と教えてくれます。①礼拝・聖書研究祈祷会、②使徒信条、③牧師、④隣人・社会・自然、⑤聖書辞典(注解書)・書籍・新聞、⑥聖書、⑦聖霊の七人です。そのように聖書は一人で読む書物ではなく、共に開かれる書物です。特に聖霊の助けを求めて開くとき、聖書はそこに秘められた宝に私たちの目を開いてくれるでしょう。エチオピア人の宦官一人を救うためにフィリポを送ってくださった主は、私たちにも聖霊を送ってくださいます。

October 31, 2020

先週説教要旨 2020.11.1

先週説教要旨 2020年11月1日 召天者記念礼拝 

「わたしたちは主のもの」池田慎平牧師

ローマの信徒への手紙第14章7~9節

 

 今日は召天者記念礼拝として、召天者を覚えての礼拝を捧げています。赴任して初めて召天者名簿をお配りしました。赴任する前からしばらくの間配布されていなかったようですが、教会として、またそれぞれに代々の牧師がその責任として葬儀を司った三一名の方々の名が記されています。お一人お一人の名に、それぞれの人生があり、主との繋がりがあることを思います。

 本日、この召天者記念礼拝で開かれた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙第十四章の御言葉です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(7,8節)。この言葉を読む時、私たちは、自分は何のために生きているだろうか、と立ち止まって考えてしまうかもしれません。私たちは普段「死んだら終わり」という価値観の中に、または逆に死への憧れを抱いている世界に生きています。しかし、それらは死に対する過大評価であり、過小評価でもあるだろうと思います。死が、我が物顔で私たちを振り回しているかのようです。

 私たち教会が信じているのは、生も死も越えて、私たちをご自分のものとされるお方です。死が私たちの関係を分かつことはありません。死はすでにそこで私たちの主人ではないのです。今日の御言葉を読みほどく鍵は、読む順番です。九節「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」の言葉から7、8節の道が開けてくるのです。「キリストが生き、そして死んだ」ではなく、「キリストが死に、そして生きた」とあるのは、キリストの十字架と復活を指す言葉です。その出来事によって、私たちは「自分自身に向かって生きる」のでも「自分自身に向かって死ぬ」のでもなく、キリストに向かって生きることができるのです。

October 24, 2020

先週説教要旨 2020.10.25

先週説教要旨 2020年10月25日 

「祝福された者として」池田慎平牧師

エフェソの信徒への手紙第1章1~3節

 

 先週は思いがけず、自宅での礼拝を余儀なくされましたが、教会での讃美の歌声が牧師館まで聞こえて来、ここに父なる神を讃える教会があることがどれほど深い神秘であるかを感謝しました。先月末で2018年2月から、2年と半年ちょっとかけて読み進めてきたフィリピの信徒への手紙を読み終わりました。次は使徒言行録と並行してどの箇所を読もうか、しばらく考えて、エフェソの信徒への手紙を皆さんと共に読むことにしました。今年度の教会標語は、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリントの信徒への手紙一第12章27節)を選びました。そして、エフェソの信徒への手紙にはこのように記されています。

 「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソの信徒への手紙第1章22、23節)。

 エフェソの信徒への手紙は全部で6章までと、新約聖書の手紙の中でも「小書簡」と呼ばれて分類される比較的短い手紙です。けれども、その中心はキリストを頭とした教会です。後半はキリストの体として召された者たちが、この地上をどう生きるか、ということが中心として語られています。あらためて、教会がキリストの体であり、私たちもその部分であることの神秘を御言葉から教えられたいと願います。

 今日はその冒頭の冒頭、手紙の最初に付された手紙の差出人の挨拶を読みました。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」。この挨拶には、差出人においても、受取人においても、神様の御心による選びが示されています。私たちは主に選ばれ、主を信じる者とせられたのです。

October 17, 2020

先週説教要旨 2020.10.18

先週説教要旨 2020年10月18日 

「神の名の呼び方」池田慎平牧師

出エジプト記第20章7節

ルカによる福音書11章5~13節

 

 十戒は私たちにこのように命じます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記第20章7節)。「みだりに」という言葉は日常ではあまり使わないでしょうか。漢字では「濫りに」「妄りに」と書き、「むやみやたらに」という意味のほか、「筋が立たずでたらめなさま」という意味があります。そう言われると私たちは不安になってしまうかもしれません。私が「主よ」と呼ばわる祈りは、「主の名をみだりに唱え」ていることにならないだろうか。イエス様ご自身も「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイによる福音書第七章二一節)と言われる言葉を聴くとなおさらです。しかし、今日読んだルカによる福音書ではイエス様は主の祈りをお教えになった時に、熱心に祈ることを勧められました。そのように、私たちは熱心に祈ることは許されているのです。

 それならば、「みだりに主の名を唱える」とはいったいどんなことを指しているのでしょうか。ある旧約聖書学者は、この「みだりに」を、「虚(むな)しいことのために」と訳しました。すなわち、ここでは主の名を唱える回数云々ではなく、主の名を唱える時の目的が問題となるのです。「虚しいこと」とは、主の尊いお名前を自分のために、しかも自分の悪事のために自由に使おうとすることです。主のお名前をわがものとして悪用する、ということです。主の尊い御名の前にひれ伏すこととは真逆のことで、主の御力をその手中に収めようとすることです。「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とイエス様が言われたように、私たちは祈りの中で変えられていきます。主が私たちのものではなく、私たちが主のものである、と。

October 10, 2020

先週説教要旨 2020.10.11

先週説教要旨 2020年10月11日 

「人の思いを超えて」池田慎平牧師

使徒言行録第8章4~25節

 

 ここから登場するのは、フィリポという弟子です。フィリポはステファノと共に教会の奉仕のために選ばれた執事の一人です。彼もまたステファノの死後、教会への大迫害を受けてエルサレムから離れざるを得なかった者の一人でした。フィリポが向かったのはサマリア、同じ父なる神を信じながら歴史的な経緯からユダヤ人とは袂を分かった民のいる町です。これはフィリポによる異邦人伝道の先駆けと言ってもよいでしょう。教会への大迫害という人の目から見ればマイナスにしかとらえられない現象の中で、そこにも神様の御業が始まっているのです。フィリポはサマリアの町で、キリストを証しするしるしを行い、神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせました。町の人々はこぞってその話に聞き入り、大変喜んで、人々は信じ、男も女も洗礼を受けました。

そのなかで、共に洗礼を受けたのが、魔術師シモンという人物です。サマリアの人々を魔術によって驚かせ、偉大な人物と自称していた人でした。「魔術」というのは、いまは廃れてしまったものではありません。シモンがしていたのは「人々を驚かせ」、「注目」を集め、「心を奪」い、自らを「偉大な人物と自称」するものでした。なにも不思議な業などではなくとも、根も葉もないうわさなども私たちの目を簡単に奪うものでもあります。そして、いま国単位でも起こっていることですが、「かわいそう」「憎い」など感情を巧みに操って、人々の心を奪う手法が跋扈しています。しかし、うわさやそのような手法はわたしたちを救わないどころか滅びに至らせるものです。

キリストの福音は、たしかに人々を畏れさせるものかもしれません。しかし、それは神の恵みのあまりの大きさに畏れさせるものであり、それを語る者を畏れさせる業ではありません。むしろ、主御自身はその弱さでもって私たちをお救いになったのです。

October 03, 2020

先週説教要旨 2020.10.4

先週説教要旨 2020年10月4日 

「開かれた天を見つめて」池田慎平牧師

使徒言行録第7章54節~第8章3節

 

 最初の殉教者となったステファノが、いよいよ殉教の死を遂げます。

 ステファノはその死の際に見つめたのは、人々の怒れる顔ではなく天でありました。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」(55、56節)。「人の子が神の右に立っておられる」という言葉には様々な解釈がありますが、私が心惹かれるのは迫害されているステファノの魂を、ステファノの存在を全身で受け止めようと御手を差し伸べ立ち上がられたのではないかという説です。まさに主イエスはキリスト者の最後を迎える時には座ってはおられない。それはひとつの希望であります。

 そして、ステファノは死の間際にあって、イエス様と同じような祈りの言葉を口にしました。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(六〇節)。最初の祈りは私たちが終わりの日に祈る祈りであり、二つ目の祈りは私たちが日々祈る祈りだとある人は言います。敵のため祈る、というのは難しいことですが、ステファノのように天を見つめる歩みの中で敵をも乗り越えていくことが、主の祈りを生きる私たちの歩みでもあるのです。

 「殉教者」はもともと「証人」という言葉から来ています。血による証を立てたステファノをはじめ、殉教者たちの歩みが、「証人」という言葉に「殉教者」という意味を与えたのです。私たちの立てる証は、血による証ではないかもしれません。しかし、私たちの生活を通して、私たちの人生を通して証していく。それはステファノのような立派な行いだけではありません。情けない歩みもまた神なしには生きていくことが出来ないことの証です。

September 26, 2020

先週説教要旨 2020.9.27

先週説教要旨 2020年9月27日 

「喜びの手紙」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第4章21~23節

 

 2018年の2月より読み始めたフィリピの信徒への手紙も、今日で読み終わります。手紙の最後を著者のパウロは、私たちが手紙やメールの最後に記すのと同じように、挨拶と祈りで締めくくっています。しかし、そこにはパウロ独特の、キリスト者独特の考え方や信仰が現れていることを読み取りたいと思います。パウロは手紙の初めにも同じ挨拶で始めています。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(1章1、2節)。ここでパウロはすべての身分をかなぐり捨てて、自分は「キリスト・イエスの僕」であると言っています。それが他のどんな肩書よりも自分を生かす肩書であり、それが生きる目的となったのです。

 また今日の箇所にも同じく「キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち」という言葉がありました。口語訳聖書には「聖徒のひとりびとり」とあったこの箇所は、神様の「聖性」に与(あずか)った者たちをそう呼んでいるのです。自分たちの内側から、自分たちの努力によって勝ち取った「聖性」ではありません。そして、それに与るのは、人種や働きや性別によるのでもなく、すべての者が「キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち」と呼ばれています。パウロはここで自分がまだ見ぬ者たちも含めて、その目に浮かべるようにして「ひとりひとり」と言っているのではないでしょうか。毎日新しい数を知らされている私たちは、その一人ひとりというのを忘れがちです。しかし、パウロが見ているのは数ではなく、一人ひとりの物語が、喜びの源泉であり、命の源であるキリストに結ばれていく様子です。そこでは争い合うことも、奪い合う必要もない、同じ釜の飯を食う仲間があります。

September 19, 2020

先週説教要旨 2020.9.20

先週説教要旨 2020年9月20日 教会創立53周年記念礼拝

「熱情の神に導かれ」池田慎平牧師

出エジプト記第20章4~6節

ヨハネによる福音書第3章16節

 

 今日は津示路教会53周年記念礼拝を捧げています。教会の何周年というのは、教会によっても異なるかもしれませんが、多くの教会では最初の礼拝を捧げた時から数えます。教会の歴史、それは礼拝の歴史です。

 今日は記念礼拝ですが、特別な聖書箇所は選びませんでした。読み続けている三要文の十戒の第二の戒めにあたる部分を読みました。十戒は単なる「してはいけない集」ではないことはすでに学びました。十戒は最初に「わたしは主、あなたの神」で始まります。十戒は、神は神のみで神であるのではなく、私をもって神としてくださるという不思議な、しかし恵みの関係から始まる、神と共に歩んでゆく言葉です。今日の聖書箇所には再び「わたしは主、あなたの神」という言葉が登場します。そして、それに続いて「わたしは熱情の神である」という言葉が続きます。口語訳や最新の訳では「ねたむ神」となっています。偶像崇拝を禁ずる戒めの中で、神は神に並ぶ何かを作り出すことや、どっちつかずの態度をとることではなく、神に応答することを求めておられます。それくらい真っすぐに私たちを求めておられるのです。その真っすぐであられる神を忘れっぽい私たちを神は赦してくださり、今日も愛の交わりの中に私たちを置いてくださいます。

 礼拝を続ける私たちは、この世の成果主義、行動主義に照らせば、ただ日曜日の朝、ここに座って集まっているだけに見えるかもしれません。

しかし、私たちがここで礼拝を捧げる、ということは、自分自身を神とすることや、世の中の価値観や雰囲気を神とすることと闘っているのです。私たちの闘いの現場はそれぞれの生きる場所でもあるかもしれませんが、私たちの闘いはどんな時にも礼拝を捧げる、新しい御言葉に聴き続ける、というところにあり続けるのです。

September 12, 2020

先週説教要旨 2020.9.13

先週説教要旨 2020年9月13日

「神の住まわれる場所」池田慎平牧師

使徒言行録第7章44~53節➁

 

 逮捕され裁きの場に引き出されたステファノの説教の言葉に聴き続けていますが、そもそもステファノはなぜ捕らえられたのか、思い出してみたいと思います。ことが起こったのは、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(第6章8節)ステファノに対し、「キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たち」(第6章9節)がステファノに妬みを覚え議論を仕掛けたことにあります。彼らはいったいどういう人々であったかというと、父祖たちがローマの捕虜としてローマやギリシア世界に連れて行かれ、イスラエル人の精神的な支柱であったエルサレム神殿から無理やり引き離された人々の子孫です。ヘレニズム的世界に生まれ、言語も生粋のイスラエル人とは違う彼らのなかには、愛国的、望郷の思いから自分たちのルーツであるエルサレムに戻り、自分たちの会堂を建てて礼拝する者たちがステファノの前に立ったのです。彼らは自らのアイデンティティを自分の血や神殿という目に見える、過去のものに見出していったアイデンティティ無き民です。その彼らにしてみれば、神殿を否定するような発言をしたイエス・キリストの福音を宣べ伝えるステファノは我慢ならない存在であったでしょう。しかし、私たちの救いの根拠というのはそのような過去の遺物となったものなのでしょうか。

 ステファノが今日の聖書で引用するのは、イザヤ書の第66章の言葉です。そこには「わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」(2節)という言葉が続きます。私たちと神様との関わりは過去の栄光や決断の中にあるのではなく、いま、ここに生きて働かれている神との新しい交わりです。祈りはいま、ここに語りかけてくださる神への応答であり、御言葉によって悔い改める魂を捧げることです。

September 05, 2020

先週説教要旨 2020.9.6

先週説教要旨 2020年9月6日

「聖霊に逆らう罪」池田慎平牧師

使徒言行録第7章44~53節

 

 教会の最初の殉教者となったステファノが語った説教の言葉を読み続けています。ステファノはいま私がしているように、教会において説教を語っているわけではありません。そうではなく、裁判の場所である最高法院に罪人として引き出され、弁明の時間を与えられて、ステファノの口から飛び出したのは、命乞いの言葉でも、赦しを乞う言葉でもなく、まさに説教の言葉でした。 今日読まれた聖書の中で、ステファノは重要なことを二つ語ります。ひとつは神がどこに住まわれるか、ということ。そして神がお選びになったはずのイスラエルの民たちが、神のお語りになった言葉に耳を傾けなかった、その罪についてです。今日は特に後半の51~53節を読みます。

ステファノはここまで旧約聖書から始まる神の救いの歴史について語ってきたことを、51節から急に向きを変えて「あなたがた」「あなたがたの先祖」と語り始めます。あなたがたというのは、ステファノを囲んでいるユダヤ教徒たちのことです。あなたがたはどうなっているのか。あなたがたは「かたくな」になっている。あなたがたは「心と耳に割礼を受けていない人たち」だ、というのです。このようなステファノの強烈な非難の中に、私たちはなにを読み取ればいいのでしょうか。それは、神様が一貫してどのような時代にも言葉によって新しく関わろうとされてきたことです。

 私たちはいまどんな時代を生きているか。コロナ時代、とすでに言われはじめ、またそれに輪をかけて私たち自身の分断も進んできている、分断の時代でもあるかもしれません。人の目から見れば、確かに私たちは目の前にあるものが私たちの時代を占めている、占領しているように思うのですが、私たちはいまもなお聖霊を通して神様が語り続けてくださることに心と耳とを傾けたいと思います。聖霊の業はいまなお止まらずに、私たちに臨んでおられる。私たちは首を固くせず、神を仰ぐ柔らかな首を求めましょう。

August 29, 2020

先週説教要旨 2020.8.30

先週説教要旨 2020年8月30日

「すべてはキリストの内で」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第4章15~20節

 

 長らく共に読んできましたフィリピの信徒への手紙も、まもなく読み終わります。手紙の締めくくりに、パウロは囚われの身である自分を心配し、支えてくれたフィリピの教会へ感謝を述べます。しかし、それは「フィリピのみんな、ありがとう」というのではなく、「感謝なき感謝」を述べています。つまり、それは私たちがふだんもののやり取りでするような感謝というよりも、フィリピの教会の人々をそのような行いに駆り立てた神に感謝しているのです。当時の社会では、捕らわれた人に対して贈り物をする、ということは覚悟のいることでした。それはパウロの苦しみを共にすることを意味します。それだけでなく、パウロはキリストのために苦しんでいるのですから、フィリピの教会の人々もまたキリストのために苦しむことを選んだのです。パウロはそのことを「表してくれた」(10節 他訳:花開いた)ことを喜び、フィリピの教会が救いの実を結ぶことを確信し、神に感謝し、賛美を捧げているのです。地上の目から見れば、状況を一変させる何事も起こっていないように見えます。しかし、パウロは徹頭徹尾、神様の視点をいつも考えていたのだと思います。神様の視点で見てみる時に、フィリピの教会との交わりはその喜びも苦しみも人間の救いに繋がることであり、大いに喜ぶべきことであるのです。

 パウロは、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)と言います。「わたしの神」とは、パウロのことを「あなたはわたしのもの」(イザヤ書第43章)と呼んでくださる神が背後におられる呼び名です。私と深く関わってくださる神が、あなたがたとも深く関わっておられる。そして、主イエスによって必要なもの(愛)を注いでくださる。もうそれだけで、本当の意味で生きていくことができるのです。

January 01, 2020

先週説教要旨 2020.8.23

先週説教要旨 2020年8月23日

「隠れた導き手」(三要文・十戒⑦)池田慎平牧師

出エジプト記第20章4~6節

エフェソの信徒への手紙第3章14~21節

 

 十戒の言葉は、「戒め」と書きますがそれは神様からの一方的な言葉ではありません。人格的な言葉です。主人から奴隷に対する命令というようなものではなく、愛する者から愛される者への言葉であり、観念的ではなく私たちの具体性の中に語られた言葉です。今日読んでいただいた十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」も、イスラエルの民の具体的な歴史の中に置かれた言葉であることをまず知らなければなりません。

 使徒言行録のステファノの説教にも取り上げられていたのが、モーセが導いたイスラエルの民が、モーセがいつまで経っても山の上から、臨在の幕屋から出てこないので、彼らは不安になって、金の子牛の像を作り始めたことが書かれています。イスラエルの民たちは「導き」を必要としていました。そして、この第二戒においても「神の導き」が問題とされています。モーセが幕屋に消えて長い時間出てこないときに、彼らは今手にしているものがまだ「荒れ野にいる」という事実しかないことに不安になり、誰がここから導いてくれるのかわからなくなったのです。これこそ目に見える神として人間を導く神として偶像を作り出す誘惑に陥る場所です。

 私たちの信仰は御利益信仰ではありませんが、そのように考えてしまうことがあります。祈ったらうまくいくばかりではありません。うまくいかなかったら、神は私を導いてはおられないのか。そうではありません。神は人間が求めた筋道とは違う筋道で御業を行うことがあるのです。私たちは神とはこういうもの、という固定観念(偶像)を捨てて生ける神を拝むのです。

August 15, 2020

先週説教要旨 2020.8.16

先週説教要旨 2020年8月16日

「命の言葉の物語」池田慎平牧師

使徒言行録第7章17~43節

 

 キリスト教会最初の殉教者ステファノが熱狂のうちに捕らえられ、最高法院に引き出されて人々の憎悪のうちに立たされているなかで、誰も彼もが憎しみの虜となっているその場において、ステファノだけが一人落ち着きながら天を見上げ、「さながら天使の顔」(六章十五節)に見えたのはとても印象的です。

 香港で起こっていることを思います。香港では自由や民主主義を訴えた大学生の若者が逮捕される事件が起こりました。困難な時代にあって、時代が進むどころか逆戻りしているようです。また大学生の逮捕で思い出すのはヒットラー政権下、地下組織で当時の政権に非暴力で抵抗した「白バラ」と呼ばれる学生グループによる運動を思い出します。彼らもまた言葉によって世界を変えようとした人々です。

ステファノが今日の箇所で語るのは、彼の逮捕理由ともなった「モーセを冒瀆している」の「モーセ」についてです。モーセの人生を三つに分けて語るときにステファノが明確に対比させているのが、モーセが四十歳の時に「自分の手を通して」(二十五節)立った時と、殺人者の汚名を着せられて逃げ出した四十年後に「神は柴の中に現れた天使の手を通して」(三十五節)モーセを指導者また解放者としてお立てになった時です。自分の力や正義、思いによって立った時は挫折したモーセを、神が立ててくださった。この出来事から、彼は自分の力による歩みにおいては挫折せずにはおれない私たちを、主なる神様が恵みのみ心によって立て、用いて下さる、そこにこそ、神の民としての歩みがあるのだ、と語るのです。モーセの指導者、解放者としての歩みは、「命の言葉を受け」(三十八節)それを伝える歩みでした。ここには命の言葉そのものとして来られたイエス・キリストが透けて見えてきます。踏みにじられてもなお、私たちの愚かさに触れてもなお、この世界に語り掛けられる神の言葉としてのイエス・キリストです。

August 08, 2020

先週説教要旨 2020.8.9

先週説教要旨 2020年8月9日

「神様からの『行け』」池田慎平牧師

創世記第15章7~18節

使徒言行録第7章1~16節

 

  キリスト教会の最初の殉教者ステファノが大祭司にうながされて語り始めたのは、アブラハム物語から始まって、イスラエルの民が辿った救いの歴史の物語でした。人間の歩みは聖書ではアダムとエバから始まりますが、イスラエルの契約の民としての歩みはアブラハムに起源があります。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるゆえんは、彼が神様からただ「行け」と命じられて一も二もなく出発したことにあります。創世記には「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という言葉が登場します(15章6節)。しかも、アブラハムが神様の御声を受けて旅立ったのは、彼が75歳の頃と言われています(12章5節)。何も持たない若者ならいざ知らず、自分の土地も財産も、知り合いや親族も、経験も持ち合わせた人が、突然何もないところへ旅立つのです。しかもステファノは彼が旅先で自分のものと呼べるものは何一つなかったことを記しています(7章5節)。しかし彼に唯一与えられたもの、それは神の約束でした。「約束」は目には見えません。いまこの手ではつかむことのできないものです。神を信じて出発し、目に見えない約束を与えられ、契約としての割礼を与えられる。このアブラハム物語をステファノが裁きの場で語り直したのは、いまや神殿や律法など目に見えるしるしをもってでしか神様との約束を信じられない者たちの罪を明らかにするためでした。

 私たちはいま国から「Go To」(行け)というキャンペーンを打たれています。命令することは、相当の信頼関係と責任を伴います。父なる神はアブラハムに、自分の傷付くことのない高みから命令したわけではありません。神は犠牲の動物と同じくこの約束が破られたなら自分もまた八つ裂きにされる覚悟で契約を結んだのです(15章17節)。その時アブラハムは眠っていました。神との契約は、神だけが罰を負うという恵みの契約なのです。

August 01, 2020

先週説教要旨 2020.8.2

先週説教要旨 2020年8月2日

「新しく生まれる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第16章24,25節

使徒言行録第6章8~15節

 

  使徒の働きを助ける執事として、教会における初めての選挙で選ばれた七人のうちの一人、ステファノの物語が始まります。使徒だけでなく、それ以外の弟子たちもまた御言葉に生き、御言葉を語る者とされたことがよくわかります。そして、ステファノの人となりを表す言葉は「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」(5節)、「恵みと力に満ち」(8節)、「知恵と“霊”とによって語る」(10節)といずれも二つずつ書かれてありますが、「聖霊」も「恵み」も「霊」も上なる神様から与えられたものです。それによって「信仰」と「力」、「知恵」を授けられ開かれた人がステファノであったと言えます。反対者たちは言葉でステファノに「歯が立たなかった」(10節)とありますが、これもイエス様の約束(ルカ12章11節)の成就でした。

 反対者たちは議論ではステファノに勝ち目がないため、人々を扇動してステファノを訴え、彼を逮捕しました。反対者たちもステファノと同じようにギリシア語を話すユダヤ人のグループに属する者たちだったと考えられます。彼らは独自に自分たちの集会を立て、律法を重んじる生活をすることで神の民たる自分たちのアイデンティティを取り戻そうとしました。だから律法や神殿ではなくイエス・キリストによる救いを説くステファノは許せなかったのです。偽証人に訴えさせたのはこうでした。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」(13,14節)。イエス様は律法や神殿をないがしろにされたのではありません。むしろその外側ばかりにこだわる思いを打ち砕き、内面にある本質(神殿は祈りの家であり、わたしの父の家である)を新たに取り戻した方です。

July 25, 2020

先週説教要旨 2020.7.26

先週説教要旨 2020年7月26日

「いかなる場合にも対処する秘訣」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第4章10~14節

 

  パウロは手紙を締めくくろうとするこの段において、このように述べています。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11、12節)。「いついかなる場合にも対処する秘訣」。それはいまひとつのウイルスによって日常が壊され、またそれだけでなく人間同士の悪しき部分もまた露わにされているこの世界で、心から教えてほしい秘訣であるかもしれません。しかし、パウロはその秘訣について、こうすれば、と言葉を続けるわけではありません。パウロはこの秘訣について「自分で得た」のではなく、「授かっています」と言います。だからパウロ自身がその秘訣について、「こうすれば」ということは言えないわけです。けれども、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(3章12節)とあるように、キリストから捕らえられたところから彼はずっとずっと走り続けてきたのです。

 パウロがこのような思いを得たのは、「恵み」に強められたからであり、同時に、恵みに応答して努力したからです。だからこそ「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と言えます。ここでパウロが「逆境」の中だけで満足できるとだけ言っているわけではないことは重要です。「順境」にあっても彼は満足するのです。歴史における真面目な人々による禁欲主義のような「半分」の生き方ではなく、どんな時も満足していく生き方。すべてのところに神様由来のものを見つけてゆく、その花がフィリピの教会にも咲いた。これがパウロの心からの喜びです。

July 18, 2020

先週説教要旨 2020.7.19

先週説教要旨 2020年7月19日

「わたしを置いて」(三要文・十戒⑥)池田慎平牧師

出エジプト記第20章1~3節

ヨハネによる福音書第8章1~11節

 

  十戒を学び続けていますが、ようやく本日は第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(3節)を読みました。十戒の始まりの言葉(2節)をこれほどまで丁寧に読んだのは、この言葉を受け入れないと後に続く戒めの言葉を正しく理解することができないからです。また十戒において、この初めの言葉が最後ではなく最初に置かれていることはとても大切なことです。

 十戒は、これらの約束事を守ったから神なるお方が「わたしは主、あなたの神」(2節)という関係性のうちに私たちを入れてくださるという、神の条件として私たちに提示されているものではありません。出エジプト記においてエジプトから導き出された民たちは、主なる神に対して何をしたのでもなく、ましてや深い信仰があったわけでもありません。しかし、主なる神はその民と「あなた」と呼ばれる関係性から始めてくださいます。何かをしたから愛する、のではなく、愛するところから始めてくださったのです。ここに第一の戒めを紐解く鍵があります。

 津示路教会の十戒には、第一戒はこうあります。「ほかの神さまを拝んではいけません」。ここには大切な言葉「あなたには、わたしをおいて」が抜けています。この関係概念なしにこの第一の戒めは成り立ちません。他の神さまを意識しているわけではないのです。「わたしをおいて」とは、「わたしを差し置いて」、大切な物事を無視する、の意です。私たちに対してとことん一途な神は、私たちが神の前を離れてしまう性質をよくご存じです。そこで私たちはあなたと呼ばわる神を無視して、自分や他者、物や価値観などで神(偶像)を作り始めます。しかし、私たちは私たちの罪を本当に赦してくださる主の顔の前に帰ってくることができるし、そう望まれているのです。

July 11, 2020

先週説教要旨 2020.7.12

先週説教要旨 2020年7月12日

「神の言葉が広がるために」池田慎平牧師

使徒言行録第6章1~7節

 

  使徒言行録は、教会が心も思いも一つにして始まったことを記録しています。しかし、一つであった、ということはとりもなおさず違いや異なる部分がなかった、というわけではありません。今の私たちと同じように、生まれも育った場所も違えば、年齢も性別も価値観も違う者たちの集まりであったわけです。人が集まれば、様々な問題が噴出してきます。しかし、それをどのように初代教会は乗り越えていったのでしょうか。

 今日の箇所には教会のメンバーとして、「ギリシア語を話すユダヤ人」(ヘレニスト)と「ヘブライ語を話すユダヤ人」(ヘブライスト)が登場します。どちらもユダヤ人ではあっても話す言語だけでなく、育った環境や価値観がそれぞれに異なる者たちでした。その彼らがそれぞれの仕方で福音と出会い、イエス・キリストとお会いして、教会のメンバーと、すなわちキリストの弟子となったのです。一節に「弟子の数が増えてきて」と書かれています。使徒言行録では「弟子」という言葉が登場するのはここが初めてです。「使徒」(十二弟子)とは明らかに違う意味で用いられていますが、教会のメンバーとされた者たちは「弟子」と呼ばれたのです。弟子とは師の後に続く者であり、師の一挙手一投足を見てそれを学び、真似をする者です。人種や価値観が違っても、教会は師であるキリストと出会い、その弟子であるという一点で一つとされた群れであります。

 またここでは教会で初めての執事(役員、長老)の選挙が行われています。それは「食事の世話をするため」(2節)とあります。使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に、選ばれた七人は助けが必要な者たちに仕える業を、ということですが、「分配」(1節)、「世話」(2節)、祈りと御言葉の奉仕(4節)もいずれもディアコニア(奉仕)というギリシア語です。それは誰よりも仕えてくださったイエス・キリストの人生と十字架から始まった業です。

July 04, 2020

先週説教要旨 2020.7.5

先週説教要旨 2020年7月5日

「人間からか神からか」池田慎平牧師

使徒言行録第5章17~42節

 

  ここ数週間で世界の情勢は刻々と変化をしています。香港では「国家安全維持法」が施行され、中国政府に対する反政府運動をした者へ逮捕・処罰を執行することができるようになってしまいました。真綿で首を締めるように国家権力の強大さが増してくなかで、「人権」や「自由」という言葉が軽くなっています。それは対岸の火事として見ているのみならず、この日本においても確実に起こっていることです。本日与えられた聖書の箇所においても、使徒たちが牢に入れられ、最高法院に引き出されるという出来事が起こったこと、そして使徒たちがそれらの出来事からどのように守られ、どのように使徒たちがその出来事を受け止めたのかが描かれています。

 ついに使徒たち全体に及んだ迫害ですが、「夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し」(19節)ました。彼らは自由にされたのですしかし、彼らは自由にされてもう捕まらないように散り散りになって逃げたかというとそうではありません。彼らは主の天使の「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず告げなさい」(20節)という命令に従い、まだ人も少ない夜明けごろの神殿で教え始めたのです。当然見つかって最高法院へと引き出され、尋問を受けます。尋問を受けた使徒たちは答えます。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29節)。

 さすがは主イエスの使徒たち、と思うかもしれません。しかし、彼らもかつてはイエス様を捨てた者たちです。神に従うよりも、人間(自分自身)に従うことを選んでしまった者たちです。しかし、彼らはなぜそのように言うことができたのでしょう。自分が責任を負うことを恐れて、福音を福音として聴くことのできないサドカイ派や大祭司と何が違うのでしょう。 彼らの「自由」は御言葉によって自分を打ち砕かれたことによる自由です。御言葉は自由(テモテⅡ第2章8節)、その自由さに私たちも与るのです。

June 27, 2020

先週説教要旨 2020.6.28

先週説教要旨 2020年6月28日

「心に留めること、実行すること」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第4章8、9節

 

  パウロは「終わりに」(8節)とフィリピの教会へ宛てた手紙を締めくくろうとしています。逮捕され軟禁状態にあった使徒パウロが、愛するフィリピの教会を憂い、口述筆記で書かれたであろう手紙の最後にパウロが何を語り、何をしようとしているか。パウロは「兄弟たち」(八節・別の訳ではあ「愛する者たち」)と呼びかけながら、八つの事柄を上げてみせています。これらの八つの事柄は他の聖書箇所ではほとんど語られていない事柄です。それもそのはず、ここに挙げられているのは、当時のギリシア・ローマ世界で培われたヘレニズム文化の倫理項目であったからです。キリスト教の教義とは関係のない倫理項目をなぜパウロは最後に並べてみせたのでしょうか。フィリピの教会の人々はこの手紙を一人で読んだのではなく、教会で説教のように読み上げて聴きました。人々は教会を出て、それぞれの生活へと帰っていきます。そこはまさにキリスト教とは相いれない、ギリシア世界の倫理によって生きる世界が広がっています。先ほどまで御言葉に満たされていながら、それをすっかり忘れさせてしまうような世界がそこに待っているのです。キリスト者の生活はそのように私たちをキリストと引き離してしまう勢力との闘いの日々であると言ってもよいでしょう。私はこの短い言葉は、使徒パウロによるフィリピの教会の人々へ向けた、牧師が礼拝の最後に捧げるような、派遣と祝福の言葉だと思います。

 「派遣」とはすなわち、生活へと戻っていくための言葉です。パウロはわざわざ八つの事柄に「すべて」という言葉を付けています。それは小さい事であっても、大きい事であってもという意味でしょう。日常の中にある小さい事も大きい事も神様が関わられない事柄はありません。パウロがそうであるように、私たちもまたキリストがこの私のうちに住みたまい、私を守ってくださる。聖書の平和、それは私を守ってくださる神の平和です。

June 20, 2020

先週説教要旨 2020.6.21

先週説教要旨 2020年6月21日

「奴隷の家より導き出した神」(三要文・十戒⑤)池田慎平牧師

出エジプト記第13章17~22節

ローマの信徒への手紙第8章18~25節

 

  「三要文」と呼ばれる、教会の歴史の中で信仰の姿勢を正す骨格として受け継がれてきた文章を今年から説教として聴き続けています。教会はその初めから信仰継承が課題であり、自分たちが出会った福音を次の世代に明け渡すために試行錯誤してきました。その中で生み出されたものにカテキズム(信仰問答)というものがあります。津示路教会ではハイデルベルク信仰問答を学んだことがあるということで聞き覚えがあるのではないかと思いますが、宗教改革者たちやその流れをくむ者たちによって他にも多くの信仰問答が生まれ読まれてきました。それぞれの信仰問答の中で、三要文がどのように読まれ、解釈されてきたか、それは現代に三要文を読む時に有益です。

 私たちの教会は日本基督教団の中でも全国連合長老会に属し、宗教改革者カルヴァンの流れをくむ改革長老教会の信仰をその軸としていますが、カルヴァン自身が執筆したジュネーヴ信仰問答では三要文は使徒信条、十戒、主の祈りという順番で読まれます。ルターの小教理問答が十戒から始まるのと既にここで違いがあります。ルターが十戒を罪ある人間として救いが必要であることを知る手立てとして、救いの教理である使徒信条の前に置くのに対し、ジュネーヴ信仰問答では使徒信条の語る救いに与った者がどうその恵みに応答して生きるかを示す定めとして十戒を置くのです。私たちはいま共にこの地上を生きるキリスト者の倫理を学ぶ思い出十戒から出発しましたが、それはまさに救われた者としての倫理であるのです。この二つの信仰問答は、十戒の始め方にも違いがあります。ルターは第一戒から始めるのに対し、カルヴァンは序文から始めます。「エジプトの地、奴隷の家より導き出した」出来事を、イスラエル民族固有の出来事だけではなく、私たちに起こったキリストが罪の奴隷であった私たちを解放された出来事として読むのです。

June 13, 2020

先週説教要旨 2020.6.14

先週説教要旨 2020年6月14日

「命の言葉を残らず告げる」池田慎平牧師

使徒言行録第5章12~32節

 

 使徒言行録を読み始めた理由に、初代教会の成立の様子を読み解きつつ、「教会とは何か」ということを改めて受け取りたいという願いがあることは先日配布した新しい教会通信でも書いたところです。しかし、「教会とは何か」と問うことはそれだけに終わりません。教会とは何かを問い始めると、「救いとは何か」、「キリスト者とは何か」、「わたしとは何か」、「神様とは何か」と問いが広がってくると思います。それらはすべて関連しあっているからです。本日与えられた聖書の箇所は、救いとは何かを問われる箇所です。

 「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」(12節)。「手によって」というのは、ただ「使徒たちによって」という意味だけでなく具体的に彼らの手を通して出来事が起こったことを指しているだろうと思います。使徒のひとりであるペトロもまた足の不自由な男の手を取って立ち上がらせたことを書いています。この「しるしと不思議な業」とがペトロのみならず他の弟子たちによってなされていったのです。これはペトロではなく、イエス様にさかのぼる業です。イエス様もまた人々に手を置いて癒されたのでした。そして、使徒たちの業は、使徒たちが祈った祈りの成就でもあります。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(4章29,30節)。使徒たちが祈ったことは御言葉を大胆に語ること、そしてイエス様の御手となることでした。今日の箇所には「その影だけでも」(15節)というような迷信めいたことも記されていますが、しかし人々は彼らの手にある神通力を信じたのではありません。「いやし」という救いのしるしによって、一人ひとりに主が出会ってくださった。そして、「主を信じ」(14節)たのです。

June 06, 2020

先週説教要旨 2020.6.7

先週説教要旨 2020年6月7日

「共有する群れ」池田慎平牧師

ヨシュア記第7章1節

使徒言行録第4章32節~第5章11節

 

 「キリスト者らしさ」とはなんでしょうか。最近ではとみに言われなくなりましたが、かつてはキリスト教と言えば皮肉も込めて「敬虔なクリスチャン」という言い方がされていました。初代の教会においても、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」(33節)とあるように、彼らの語る言葉や行動は素晴らしいものに映ったのです。入り口は人の目には素晴らしく見える「キリスト者らしさ」であっても、いいかもしれません。しかし、私たちはキリスト者らしさを突き詰めていくところに真のキリスト者となる道があるわけでないことを知っています。真のキリスト者らしさは、復活のイエス・キリストと出会うことによってでしか生まれないのです。 

 使徒言行録は初代の教会の生活を描き出しており、今日与えられた箇所にもまた初代教会の美しい共同生活があったことが言い表されています。ここにもまた「キリスト者らしさ」があるかもしれません。しかし、これらの共同生活は規則として行われていたのでも、義務として行われていたのでもありません。バルナバの名がここに登場し、土地を売却した代金を教会に献金した出来事が刻まれているということは、当時もまたそれが素晴らしい出来事として人々の話題になったし、逆に言えば皆のものが同じことをしたわけではなく、主と出会った喜びによる自発的な捧げものであったのです。

 しかし、バルナバとは真逆のことを行った者の名前として、アナニアとサフィラの名前が登場します。行ったことはバルナバと似ています。しかし、この夫婦が行ったのはバルナバと対抗し、バルナバと同じように自分も素晴らしいキリスト者としての名声を受けつつ、自分のものは自分のものとしておくものでした。二人が本当に主イエスと出会っていたならば・・・。

May 30, 2020

先週説教要旨 2020.5.31

先週説教要旨 2020年5月31日

「祈りの源泉」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章31~34節

フィリピの信徒への手紙第4章1~7節

 

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)の礼拝として、この礼拝を捧げています。聖霊の御業を思う時、私たちもまた聖霊によらなければキリスト者としての生活を送ることができないことを知らされます。何より、私たちキリスト者に与えられている「祈り」という業は、司祭や牧師でなくともできる当たり前で単純なものかもしれません。しかし、祈りの業は父なる神に向かい、子なる神イエス・キリストの御名によって、聖霊なる神の執り成しによって可能な出来事であり、深い神秘です。本日与えられた聖書箇所で言えば、「主はすぐ近くにおられます」(5節・口語訳「主は近い」)という現実が私たちの祈りを励ましてくださいます。

 「主は近い」(5節)。そこには二つの意味があります。一つは天に昇られたキリストが再び地上に来られる日は近い、ということです。主御自身が約束してくださった約束の日であり、神の国の完成の時でもあります。主が来られる時、それは誰にもわかりません。しかし、それは確実に来る時であり、礼拝の内にすでに先取りしてくださった時でもあります。この主の近さに支えられて、私たちは「御国を来たらせたまえ」の祈りを捧げることができます。またもう一つの意味は、私たちを慰めるどんな存在よりも主が近くにいまして下さるということです。天におられるはずのキリストが共にいてくださるのは、聖霊の業によるほかありません。聖霊もまた主が約束してくださった、助け手であります。私たちは自分たちの気分やコンディションで主を遠く感じたり、私など見捨てられたのだと思ったりすることもあるかもしれません。しかし、私たちの状況がどうであろうと主は近くいまして下さる。それを知るのは祈りにおいてです。「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。

May 23, 2020

先週説教要旨 2020.5.24

先週説教要旨 2020年5月24日

「主の名を知る幸い」(三要文・十戒④)池田慎平牧師

出エジプト記第20章1~3節

マタイによる福音書第1章18~25節

 

 三要文の学びを始めて十戒の第四回目に入りましたが、いまだ十戒の戒めそのものには入っていないと思われるかもしれません。しかし、十戒はこれを序文とするか、第一の戒めとするか意見は分かれますが、「わたしは主、あなたの神。あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」という二節の神の言葉がなければ、私たちの生きるこの世界に多様な価値観の数だけあるありとあらゆる倫理と変わりのないものになるでしょう。「殺してはならない」「父母を敬え」「盗んではならない」、それらは単体で見ればキリスト者でなくとも、誰もが語り、親から教えられた教訓であるかもしれません。しかし、これは他でもない「わたしは主、あなたの神」とご自身を表してくださる主との約束ごとであるのです。この言葉がなければ、十戒は意味をなさないのです。

 「わたしは主」というのはどういうことでしょうか。これは神の名乗りです。主はご自分の名を名乗って、それからご自分の性質、主とは何者であるかをお示しになります。「主」がこの方のお名前です。不思議なお名前です。ヘブライ語では神の名は聖四文字というものであらわされます。このお名前は人間の声で発音することが許されない名前です。だから代わりに「主」、ヘブライ語で「アドナイ」と呼びます。「主」と呼ばわる。その時に私たちは神の名を呼ぶことになるのです。新約聖書で主とあがめられるのはイエス様です。私たちはイエス様の御業によって、罪の中にありながら主の名を呼ぶことができるようになりました。神の前に出ることができるようになりました。

 神はそのように、私たちと名と名で呼び合う関係を欲しておられます。役職ではなく名で呼び合う関係は特別な関係です。

May 16, 2020

先週説教要旨 2020.5.17

先週説教要旨 2020年5月17日

「大胆に御言葉を語れ」池田慎平牧師

使徒言行録第4章13~31節

 

 最高法院に引き連れられたペトロは、臆することなくイエス・キリストに起こった出来事を大胆に(聖書協会共同訳は「堂々と」)語りました。それはペトロに勇気があったからでも、ペトロが雄弁だったからでもありません。「ペトロは聖霊に満たされて」(8節)いたからです。それは「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカによる福音書第12章11、12節)という主イエスの御言葉の成就でした。議場にいる「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き・・・ひと言も言い返せなかった」(13、14節)のです。

 彼らは結局、何が起こったのか不思議に思う他なかったのです。そして、二人を「今後あの名によって誰にも話すな」(17節)と脅すという手段によってでしかこの事態乗り越えることはできませんでした。現代の私たちも同じ仕方ではありませんが、無関心や価値の多様化など御言葉を語ることが脅かされている社会であることには変わりがないかもしれません。それでは弟子たちはこれらの出来事をどのように受け入れたのでしょうか。二度と迫害が起こらないように、脅されないように祈ったでしょうか。そうではないのです。彼らが祈った祈りは「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(29節)というものでした。帰還したペトロとヨハネを迎え入れた教会がこれを祈ったのです。ペトロだけではありません。使徒パウロもまたこの教会の祈りを求めました(エフェソの信徒への手紙第6章20節)。この教会においても、礼拝前の準備祈祷で一人の姉妹がいつもこれを祈ってくださいました。祈りによって私たちは現実に対抗することができるのです。

May 09, 2020

先週説教要旨 2020.5.10

先週説教要旨 2020年5月10日

「踏みにじられたその名によって」池田慎平牧師

使徒言行録第4章1~12節

 

 足の不自由な男と共に神殿に入り、福音の宣教を行ったペトロとヨハネを、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」(1節)が見とがめ、主イエスの復活を語っていることを知って腹を立て、彼らを逮捕したところから今日の箇所は始まります。使徒言行録にこれから何度となく書かれていく弟子たちへの迫害がいよいよ始まったのです。

 しかし、弟子たちはとても落ち着いているように見えます。捕まえられて最高法院に引き出されても、ひるむことなく信仰の確信をもって、イエス・キリストの名による言葉を語っています。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事、これによって今目の前にいる足の不自由だった男は立っている。そのことの証人として、ペトロとヨハネは語るのです。そして、「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)という信仰告白の言葉をも語るのです。これはひとつの知識、情報を伝達することとは違います。イエス・キリスト以外にわたしたちが救われるべき名は与えられていない、という確信であり、断言です。他と比べてこうだ、と言っているのではありません。ペテロはあらゆる宗教を見比べて、キリスト教が特に優れている、と言ってこれを語るのではありません。足の不自由な男について語っていますが、しかし彼自身がキリストの名によってふたたび立ち上がることができた。この名によってでしか自分は立ち上がることはできなかった。それを自ら体験している。体験からの真実を語る言葉であります。

 ペテロはイエス様を見捨てて、最高法院で裁かれるイエス様のすぐそばで「あの男など知らない」と三度も主を否みました。あの時は入ることのできなかった、主が裁かれた議場において彼は何を思ったでしょう。私たちは主の御跡を踏む限り、その歩みは失望で終わることがないのです。

May 02, 2020

先週説教要旨 2020.5.3

先週説教要旨 2020年5月3日

    「命への導き手」池田慎平牧師

           使徒言行録第3章11~26節

 

 「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると」(11節)。ペトロとヨハネはすでに神殿のなかへ歩みを進めていました。「その男」とはペトロとヨハネに主の名によって立ち上がらせていただいた元・足の不自由な人です。彼は長い間神殿のそばに座っていたのですが、そこに入ることが許されませんでした。しかし、今や彼は立ち上がって主の弟子と共に父なる神を讃美し、礼拝しているのです。この出来事に人々は驚き集まってペトロとヨハネを見つめました。まるで先程の「その男」のように(5節)。

 ペトロは神殿で集まってきた人々に向かって説教を語りました。それはすなわち初代教会が語った宣教の言葉、福音の言葉です。ペトロはここで私たちの持つ根源的な惨めさについて語ります。そこで対比されているのは、「聖なる正しい方」(14節)、「命への導き手」(15節)と、「人殺しの男」(14節)という言葉です。

 「命への導き手」、口語訳では「命の君」と訳されたこの言葉は、すなわち「命の根源」という意味がもとになっています。私たちの誰もが命を得たいと願っています。しかし、それにもかかわらず私たちが選択したのは「人殺しの男」という滅びであり、命の根源たる「命への導き手」を選択できない悲惨があります。それをハイデルベルク信仰問答では倒錯した人間の悲惨として描いています。しかし、私たちの悲惨の終わりとしてペトロが語るのは、主の御復活です。私たちの惨めさに負けたままではおられないで、「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」(15節)。だからこそ、私たちは今もなお生き給う方に悔い改めることができるのです。

説教後に共に五三二番の讃美歌を讃美します。「いずこにも(主イエスの)みあと見ゆ」(2節)「幸ならぬ禍(まが)もなし」(3節)。主はそのように苦しみを苦しみで終えることのない方である。今、心からそう信じます。

April 25, 2020

先週説教要旨 2020.4.26

先週説教要旨 2020年4月26日

「丁寧な愛、健やかな体」池田慎平牧師

コリントの信徒への手紙第12章12~31節

 

 今日はコリントの人々に対して使徒パウロが語った言葉を共に聴きました。「あなたがたはキリストの体である」(27節)。これは誰が見ても秩序だっており、どこからどう見てもキリストの体としか言えないような人々に対して語った言葉ではありません。コリントの教会の混乱は「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いをひとつにして」(第1章10節)とあるようにパウロも伝え聞いていたことでした。しかし、それをパウロは、「キリストの体」と呼んだのです。なぜなら、それが人の目には美しくなかろうと、目には見えないキリストがその頭でいてくださることを、パウロは示されているからです(エフェソ第1章10節他)。

 身体は頭だけでは体であることはできません。「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)。パウロの言葉から派生して、教会はひとつのオーケストラにも例えられます。私たちはそれぞれの楽器を与えられて、どのパートが欠けても美しい調和を生み出すことはできない。しかし、その調和を自分たちで作り出しているのではないことを忘れてはなりません。パウロは体の例えが特に目新しいものでないことを語りながら、「キリストの場合も同様」(12節)と言います。ここでは教会がキリストと呼ばれているのです。それは驚くべきことです。教会の頭がキリストであることに与る、ということは私たちもキリストと同じものとせられているということです。私たちの慰めは、キリストと父なる神とが一つであるように、私たちもまたキリストと一つであるという事実の中にあるのです。

 教会が「キリストの体である」事の慰めはもう一つあります。それはキリストの体であるがゆえに、もちろん時代の流れによって膨らんだり縮んだり、繋がりが目に見えなかったりすることはあるかもしれませんが、これは永遠に滅びることはない、ということです。

April 18, 2020

先週説教要旨 2020.4.19

先週説教要旨 2020年4月19日

「自由への指針」(三要文・十戒③)池田慎平牧師

出エジプト記第20章1~21節

コリントの信徒への手紙一第10章1~6節

 

 読んでいただいた出エジプト記の十戒には安息日の規定が書かれています。いま私たちは安息日が与えられていることに改めて感謝をしたいと思います。すべての情報をシャットダウンして、神の御言葉だけに集中する。そこで私たちは自分を取り戻すのです。

 十戒は文字通り「十の戒(いまし)め」と書きます。その内二つが「しなければならないこと」、八つが「してはならないこと」となっています。これはまるで私たちを縛る約束ごとのようです。「~してはいけないよ」そう何度も言われて育った幼少期を終えた私たちにとって、これらの約束ごとはもう無縁のものなのでしょうか。今朝は十戒の始まりの文章に注目したいと思います。これを序文とするか第一の戒めとするかは議論が分かれますが、ともかく十戒はこう始まるのです。

「わたしは主、あなたの神、

あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)。

 まず注目したいのは、神が自己をどのように表しているかというところです。神は神だけで存在することができるはずなのです。この私になど目をくれなくとも、神として存在できるはずなのです。しかし、神は「あなたの神」であることを欲しておられる。そしてわたしの神であるこの方は、エジプトから逃れ出して自由にしてくださった神であるのです。

 私たちにとってのエジプトとはすなわち罪のことです。私たちは罪の奴隷状態から神の力によって導き出されながら、エジプト(罪)を懐かしむ愚かな者です。そのように自由は私たちを恐れさせます。しかし、私たちの自由は主が与え、キリストが支えてくださる自由です。その自由に生きるために、自由とされたことを思い出すために、この約束ごとがあるのです。

April 11, 2020

先週説教要旨 2020.4.12

先週説教要旨 2020年4月12日(復活日礼拝)

「主の名によって立ち上がる」池田慎平牧師

          イザヤ書第40章27~31節

          使徒言行録第3章1~10節

 

イースターおめでとうございます!

 緊急事態宣言が七都市に発令され、繁華街から人が消える。異常な光景をテレビでもまた実際にこの目でも目にします。それと共に、日本のみならず世界中にある多くの教会で今日イースターであるにもかかわらず礼拝ができない事態になっています。この局面を私たちはどう乗り越えていけばいいのでしょうか。信仰や礼拝よりも現実だ、そういう道もあり、助けてもらえるならどんなものでも信じる、そういう道もあるでしょう。しかし、私たちは命を失う危険のなかで、信仰の命まで失ってよいのでしょうか。苦難を信仰でごまかすのではなく、コロナという現実を受け止めつつ、復活の主がおられる現実も受け止める。それが私たちの現実の歩き方です。ある牧師が現状を受け止めつつ、語ったのは「見える距離は遠く、見えない距離は近く」。ナチスに抵抗し処刑された牧師のボンヘッファーは「神は最も悪いものからもよいものを生じさせる」と神を見上げました。苦難の時に聖霊が語らせる言葉にこそ、耳を傾けたいと願います。

 ペトロとヨハネが通りかかった。「美しい門」の前に座らされていた彼にとってはまさにそれこそがそれまでの歩みの死であり、復活であり、彼に用意された時であったのです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。これもまた聖霊がペトロに語らせた言葉であったでしょう。復活のメッセージはつまりこうです。

 この苦しみには終わりがあるのです。死には終わりがないと思っているかもしれません。しかし、死でさえも私たちを終わらせるものではないのです。朝が来ない、と思っていた。しかし、朝は来るのです。

April 04, 2020

先週説教要旨 2020.4.5

先週説教要旨 2020年4月5日

「福音のこだま」池田慎平牧師

         使徒言行録第2章36~47節

 

 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。

 このペトロの言葉に、その場にいたユダヤ人の人々は「大いに心を打たれ」(37節・口語訳「強く心を刺され」)、それまで自分が築き上げてきた世界がガラガラと音を出して崩れるような思いで立ち尽くしていました。彼らはユダヤ人であり、神の律法に従い、救世主を待ち望んで生活をしていた民です。その彼らがその救世主その人であるイエスを十字架にかけて殺した、この私が殺した、それを聞かされて茫然自失となってしまったのは当然のことでしょう。福音はそのように、私たちの罪性を明らかにする鋭い言葉です。彼らは真摯にペトロたちに問います。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(37節)と問いました。

 ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)。そして、ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に多くの人々が仲間に加わったことが報告されます。ペンテコステが教会誕生の出来事としてあるのは、ここまで読まなければわからないのです。

 ここには初代教会の生活の様子も描かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(四二節)。また「皆一つになって」(44節)「毎日ひたすら心を一つにして」(46節)とあるのは、教会としての生活を試行錯誤しながら、キリストの臨在に集中することに熱心であったことが読み取れます。そのように、彼らを変えた福音の力がこだまのように世界に伝播していったのです。

March 28, 2020

先週説教要旨 2020.3.29

先週説教要旨 2020年3月29日

「喜びの源泉」池田慎平牧師

              詩編第13編2~6節

              フィリピの信徒への手紙第4章1~7節

 

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)。

この言葉を私たちはどう受け止めるだろうか。特にいま、喜びは自粛され、不安が襲うこの世界にこの言葉はどう受け止められるだろうか。

  英訳聖書でこの箇所を読むと、「喜びなさい」はRejoyceとなる。Rejoyceという動詞はそれだけで成立しないで、その根拠を求める。そして、ここで喜びの根拠としてパウロが示しているのは、「主は近い」(5節・口語訳)ということである。これは目に見えない形で、しかしあなたの手の触れるようなすぐそばにおられる。喜べと命じられても、何事もなしに私たちは喜ぶことはできない。しかし、パウロのこの言葉は、私たちの目を恐れから、「主は近い」という喜びの源泉へと私たちの目を向けさせる。喜ぶ、それはいつも主が私と共におられ、私の心に触れてくださることを知ることである。

 主は近い。主は共におられる。どんな主が共におられるのか。私たちのために苦しみ、私たちのための死を死んでくださった、そしてそこから立ち上がってくださった主が共におられる。死に打ち勝ち、私たちを愛してやまない主が共におられる。

 私たちは苦しみそのものを喜ぶことはできません。苦しみは苦しみであるからです。しかし、苦しみを通して、普段見ていなかった喜びの源泉へ引き戻されていく。「しばしば、悲しみのための空間が踊り(喜び)によって作り出される一方で、その踊りの振り付けは悲しみによって生み出されてゆきます。」(ヘンリ・ナウエン)の意味を知る日が来るのです。

March 21, 2020

先週説教要旨 2020.3.22

週説教要旨 2020年3月22日

「正しく恐れるために」池田慎平牧師

           創世記第22章1~14節

           ルカによる福音書第5章1~11節

 

 本日は十戒について説く説教の第二回目ですが、まだ十戒本文の内容には入りませんで、神の御前に立つ、ということについてペトロの召命の出来事から聴いてみたいと思います。

 ペトロは漁師でした。イエス様と出会ったとき、ペトロは仲間たちと共に夜通し漁をして何も獲れなかったまま網を洗っていました。そこに沖から少し漕ぎ出してほしいと頼んだのがイエス様だったのです。舟の上から群衆に語り終えたイエス様は、「漁をしなさい」と命じます。ペトロの経験から言えば、もう獲れるはずがないのです。しかし、ペトロの口から出たのは「お言葉ですが」ではなく、「お言葉ですから」という言葉でした。そして、お言葉ですから、と従ったときに大漁になったのです。これはペトロの信仰の物語ではありません。ペトロもイエス様のことを完全に主を信じ切っていたわけではなかったでしょう。半信半疑でも、それを信仰と受け止めてくださる。イエス様はペトロに対しても、また屋根を破ってイエス様の御許に友人を下ろしてあげた人々にも、そこに信仰を見出します。半信半疑の思いでしか、または単なる友情でしかなかったかもしれない。私たちの目から見ても、到底信仰とは呼びえない思いを、イエス様は信仰として受け止めてくださる。そして、私たちを神の御前へと誘ってくださるのです。

 神の御前で知るのは、私が罪人であるということです。イエス様のそばにいるわけにはいかない。しかし、イエス様は「恐れることはない」と言ってくださいます。そして、新しい自分の姿に気付かせてくださるのです。神の御前に立つことは厳しいことでもありますが、しかし、主イエスによって私たちは恐れずにそこに立つことができるのです。

March 14, 2020

先週説教要旨 2020.3.15

先週説教要旨 2020年3月15日

「彼は陰府に捨て置かれず」池田慎平牧師

           詩編第第23編1~6節

           使徒言行録第2章24~36節

 

 キリストは十字架につけられて殺された。それは私たちの罪のためであった。他でもないこの私が神から遣わされた主イエスを十字架につけたのだ、とぺトロは語る。神を知らないあの人ではない、神を知りその約束に生きていたはずのあなたが彼を十字架につけたのだ、と。

私たちは果たしてこの罪に耐えきれるだろうか。キリストが十字架の死で終わりであったなら、私たちは誰もその重荷に耐えきれないだろう。しかし、主は死によって落とされた陰府に捨て置かれたままではなかった。復活させられたのである。復活が十字架に意味を与える。復活がなければ、十字架は赦しのしるしにはなりえなかったのです。二十四節にある「しかし」は大いなる「しかし」なのです。

 そして、復活はイエス様が主語ではないことも重要です。イエス様は復活しました、ではなく「復活させられました」(24節)とペトロは言います。誰によって復活が起きたのか。他ならぬ神の出来事であったのです。ぺトロは陰府からイエス様を引き上げる神の御手を見たわけではありません。しかし、イエス様の復活が徹頭徹尾、神の業であったことを主イエスの言葉と聖霊の働きによって知ったのです。「わたしたちは皆、そのことの証人」(32節)とせられたからです。

だから、ぺトロが引用して語る詩編の言葉は、私たちへの希望であり慰めとなります。「彼(主イエス)は陰府に捨てておかれ」なかった。主イエスを陰府から引き上げられた神の御手は、私たちをも引き上げてくださる御手です。私たちが死の陰の谷を歩むときも、この復活の主が共に歩き、私たちを捨てておくことはないのです。

March 07, 2020

先週説教要旨 2020.3.8

先週説教要旨 2020年3月8日

「十字架を宣べ伝える言葉」池田慎平牧師

          イザヤ書第52章13節~53章12節

          使徒言行録第2章14~23節

 

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐためとはいえ、高齢者の方々に「礼拝に来ることを控えるように」とお知らせする日が来るとは思ってもみないことでありました。しかし、この世界になおも主は言葉でもって臨んでくださることを信じたいと思います。

本日与えられた聖書箇所に書かれているのは、ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が起こって教会が生まれて最初になされた使徒ペトロの説教と言われています。ペトロは最初の説教で一体何を語っているか。それはイエス様がどんなに素晴らしくいい人で、わたしたちもこの方に倣って倫理的に生きることというのではありません。そうではなく、ペトロはイエス様の十字架と復活、そのことに集中して、むしろその二つ以外でイエスさまを紹介しようとはしないのです。

ペトロがここでまずしていることは、「イスラエルの人たち」(22節)と呼びかけて、この神が遣わしてくださったメシア、すなわち救い主をあなたが十字架につけたのだ、という罪を明らかにすることでした。「イスラエルの人たち」というのは神の約束のうちに生きる人々のことです。神の約束に生きる、あなたが神の遣わしてくださった方を殺した、という重い罪をペトロは指摘するのです。ペトロは「イスラエルの人たち」、と言うとき、自分を入れていなかったなどということは考えられないでしょう。自分もまた主イエスを十字架にかけた、罪人の一人として、逮捕された主イエスを目の前にして「わたしはその男を知らない」と三度も言ったことを思い出しながら、血を流すように、おそらく涙を流しながら語ったのではないかと思います。そして、御言葉を聴く私もまた主イエスを十字架につけた罪人です。赦しの恵みはそこから始まります。

February 29, 2020

先週説教要旨 2020.3.1

先週説教要旨 2020年3月1日

「言葉によって伝えるために」池田慎平牧師

              創世記第11章1~9節

              使徒言行録第2章1~13節

 

 ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事は、弟子たちにとって、そして私たちにとって、イエス様が約束された聖霊が注がれ、教会が始まった出来事として覚えています。そして、ペンテコステの出来事はそれだけではありません。これらの出来事を目撃した人々は皆驚きました。何に驚いたのか、それは「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(六節)からでした。当時、エルサレムには五旬祭のために西から東から、離散したユダヤ人たちが集まっていたのです。彼らはそれぞれに住み着いた地域の言葉を話していましたから、「めいめいが生まれた故郷の言葉」(8節)しか通じなかったはずです。しかも、「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人」(7節)です。特別な教養があったわけではないのです。しかも、彼らはただのおしゃべりを外国語で話し始めたわけではない。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)とあるように、神様が私たちのために成し遂げてくださった救いの御業について語ったのです。そのように聖霊は、私たちの口を通して、神様の出来事を語らせてくださる、新しい言葉を与えてくださる霊であり、またその言葉を聴くことができるようにしてくださる霊であるのです。

 日本人の美徳の一つとして、「言わぬが花」というように自分たちの感情や思いをあまり言葉にしない、というものがあるかもしれません。しかし、私たちは言葉によってでしか、具体的なコミュニケーションが図れないのではないかと思います。相手の意を汲もうとして想像を働かせても、それが妄想になれば大きなすれ違いが生まれます。そんな至らぬ私たちの言葉を用いて主の御業を語らせてくださる恵みに、感謝。

February 22, 2020

先週説教要旨 2020.2.23

先週説教要旨 2020年2月23日 

「主において同じ思いを抱く」池田慎平牧師

          フィリピの信徒への手紙第4章2~7節

 

 パウロが手紙を書き送ったフィリピの教会では、おそらくパウロの手紙を回し読みや黙読ではなしに朗々と読み上げられただろうと考えられています。パウロ先生からの手紙を、皆喜んで聴いたのです。その手紙の文中に、突然自分の名前が出てきたらどうでしょうか。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)。エボディア、そしてシンティケ。この二人はフィリピの教会においてパウロと共に「力を合わせて、福音のために・・・共に戦ってくれた」(3節)信仰の友であり、同労者であり、戦友だった婦人たちの名前です。その二人がどんな理由か仲違いをしている。パウロが個人の問題に言及しているのは他にあまり例を見ません。すなわち、彼女たちの諍いは彼女たちだけのものではなく、教会全体に関わってくることととらえていたのです。だからこそ、「主において」、あなたがたを救ってくださった「キリストにおいて」同じ思いを抱きなさい。一致しなさい、と勧めるのです。

 主において同じ思いを抱くことについて、パウロは教会全体に対しても第2章1節から語っています。その時パウロは、神の御子でありながら、私たち罪人のためにご自分を無にし、人間と同じ者となって、へりくだって、十字架の死に至るまで神に従順であったキリストの姿を描き出すのです。「互いにこのことを心がけなさい」、つまりそのキリストのへりくだりを思うときに、十字架の御前に立つときに、はじめて主において同じ思いを抱くことができるのです。

 「勧めます」(2節)という言葉には「慰める」という意味も含まれた言葉です。私たちはキリストの十字架によって、それを通してあらわされる神の愛に慰められて、「真の協力者」となることができるのです。

February 15, 2020

先週説教要旨 2,020.2.16

先週説教要旨 2020年2月16日 

「神の御前に立って」(三要文・十戒①)池田慎平牧師

           列王記下第5章1~19節

           コリントの信徒への手紙一第8章1~6節

 

 私たちの正しい居場所、正しい位置というのはいったいどこでしょうか。それは、神の御前です。しかし、私たちは神の御前にいられるでしょうか。そして、そこが心地よいところとなっているでしょうか。カインは弟に対する怒りが心に起こったとき、顔を伏し神様の方を見られませんでした(創世記第3章)。罪のゆえに神の御前という本当の居場所を失ってしまった、それが私たちの現実です。本当の居場所に帰るためには、神様自らが導き、招いてくださらなければできません。教会が大切にしてきた三要文(さんようもん)の一つ、十戒においても、前文には神様がまず私たちを自由にしてくださったことが書かれています。

 ナアマンの物語は、いかにして私たちが神の御前へと出ていくことができるか、ということを教えてくれます。ナアマンはイスラエルの敵であったダマスコの将軍です。イスラエルへの攻撃の際に戦利品として連れ帰った少女を妻の奴隷としていましたが、その少女がナアマンの皮膚病をイスラエルにいる預言者(エリシャ)なら治せる、と進言したところから物語は始まります。ナアマンはわらをもすがる思いで、イスラエルのエリシャのもとを襟を正して訪れます。しかし、エリシャ本人は彼に会おうともせず、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と指示を与えただけでした。治療のためにあれもこれもしてくれると思ったのに。そんな簡単なことで治るはずがない。期待を裏切られ、プライドを傷つけられた彼は怒って立ち去ろうとします。しかし、部下たちの「せっかくだから」という言葉に、自分の期待やプライドをいったん置いて、川に入り癒されたのです。神の御前に「引き返」(15節)すとき、邪魔になる私たちのプライドを主の自由に生きる言葉が打ち砕いてくれます。

February 08, 2020

先週説教要旨 2020.2.9

先週説教要旨 2020年2月9日 

「約束の日に」池田慎平牧師

           エゼキエル書第37章1~10節

           使徒言行録第2章1~13節

 

 使徒言行録を共に読むのは、「教会とは何か」ということを共に読みたいと願っているからです。そして、ここまで読み進めてきた中で浮かび上がってきたのは、教会の種として集められたのが、「約束を信じて待つ群れ」であり、教会もまたそうであるということです。「約束されたもの」、それはすなわち聖霊であり、再臨です。イエス様は聖霊について、ルカが書いた文書のなかで三回も言及しています。ペンテコステの出来事は、イエス様が約束されていた聖霊がようやく与えられたということです。そのことによって教会が生まれた。教会とはそのように人間の組織から始まったわけではないことを覚えたいと思います。

 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2,3節)。天上からのしるしが、一人ひとりの心に見えないかたちで働きかけたのではなく、耳に聞こえるかたちで、目に見えるかたちで、全存在を揺さぶるようにして現れました。そうして、体としての教会に命の息を吹き入れたのです。

 聖霊はいのちの霊です。エゼキエル書を見てみるとそのことがよくわかります。枯れた骨に対する言葉なんて、誰も持っていなかった。「枯れた骨は生き返ることができるか」という主の問いにエゼキエルは「主よ、あなただけがご存じです。」としか答えられなかった。それほどまでに命の痕跡のない有り様だった。もう一度立ち上がるなど、簡単には言えない。人間の可能性は残されていない。しかし、神の可能性にかける。そこにしか望みはない。同じように私たちも、聖霊によらなければキリストの生きた体として歩むことはできないのです。

February 01, 2020

先週説教要旨 2020.2.2

先週説教要旨 2020年2月2日 

「十二弟子の意味」池田慎平牧師

              創世記第35章22b~26節

              使徒言行録第1章15~26節

 

 「兄弟たち」。ぺトロはこれから教会として立つ人々に向かってそう呼び掛けます。数節前に登場する「イエスの兄弟たち」とは違う、血の繋がりではなく、主によって結ばれた兄弟たちです。そこには婦人たちも含め、「百二十人ほどの人々が一つになって」いたのです。ぺトロをはじめ弟子たちは、イエス様が天に昇られた後に、天使に励まされてオリーブ山を降ってまず行ったことはふたつ。ひとつは約束の聖霊を祈って待つこと、そしてイエス様から選ばれた十二弟子を補充することでした。

 ぺトロはまずここでイスカリオテのユダに起こったことを述べます。ユダの問題は、さまざまな議論を呼ぶためここでは詳しくは話しませんが、悪の問題に関して、ある人は「その悪さえも恵みのために用いられる」と主の知らぬ悪の存在しえないことを語ります。「この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」(16節)。私たちの自己顕示欲や自己承認欲求などの欲望もまた神の支配下にあるのです。

 ペトロは「ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるため」(25節)、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて祈り、くじを引きます。そして、マティアが選出され、再び十二人でスタートするのです。なぜ、この十二人というのが大事であるのか。イエス様がお選びになった数、ということもありますが、この「十二」はヤコブの子たちの数であることを忘れてはなりません。すなわち、全民族を表すのがこの「十二」という数であるのです。「主の復活」、それは一部の人だけに関わる主の恵みではありません。世界に生きるすべての人に関わる恵みです。だからこそ、祝福の基として十二弟子からスタートしたのです。

January 25, 2020

先週説教要旨 2020.1.26

先週説教要旨 2020年1月26日 

「主にあって堅く立とう」池田慎平牧師

              詩編第第132編13~18節

              フィリピの信徒への手紙第4章1節

 

 「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリピの信徒への手紙第4章1節)。

 パウロはここで、「だから」と言ってそれまで語っていたことのまとめをしています。パウロは私たちが最後にたどり着く希望について語りました。信仰生活を語るときには、地上の事だけでは終わらず、天上における完成についても語る。トンネルがいつか終わることを知っているから安定して走ることができるように、私たちは地上にありながら天上の望みをもって走っているのです。そして、そのように天国に国籍を持って歩む者は、「主によってしっかりと」立っているし、これからも立ち続けるのです。パウロの勧告は、そのようにキリスト者が立つ立脚点としてのキリストへの信頼を、愛をもって示してくれているのです。

 パウロはこの「しっかり立つ」(口語訳:堅く立つ)ことが一人きりでの出来事でないことを知らすために、フィリピの教会の者たちが、また私たちが何者であるかをその呼びかけの中にあらわしています。その中でも、「兄弟たち」という呼び名は革命を呼びました。当時の教会にはいわゆる「奴隷」の身分であった者たちも出席していたようです。世の中では主人と奴隷という関係です。しかし、教会において「兄弟」と呼ばれる。ありえないことが起こった。身分や生い立ちが違っても、好きな人だろうと嫌いな人だろうと、主において、主の愛のうちに私たちは兄弟であり、姉妹である。そういう愛の交わりの中に、キリストに立つ、御言葉に聴き続けていく歩みがあるのです。年齢と共に私たちの足腰は弱くなっていきますが、いよいよ信仰の足腰は強くなりたいのです。

January 18, 2020

先週説教要旨 2020.1.19

先週説教要旨 2020年1月19日 

「詩編・傷付いた者の讃美と祈り」池田慎平牧師

              詩編第第150編

              マルコによる福音書第9章24節b

 

 先週の聖書研究祈祷会で2016年から読み続けてきた「詩編の学び」を終えました。第一編から順番に最後の第150編まで皆様と共に丁寧に読み続けて、ようやく読み終わったのです。今週から新たに「箴言の学び」が始まります。今日はその恵みを詩編の最後である150編と共に分かち合いたいと思います。

 詩編の学びを始めるとき、これまで詩編がどのように読まれてきたか、様々な信仰者たちが詩編について語った文章を読みました。例えば、宗教改革者のカルヴァンは詩編注解の序文の中で、「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。なぜならば、あたかも鏡に写すようにその中に描写されていない人間の情念はひとつも存在しないからである。」と詩編について言い表しています。また日本人の神学者・北森嘉蔵は「詩編を読んで驚いたのは、わたしに先立って苦しんだ人間がいてくれたという実感です」と記しています。どちらも、詩編の中に自分を見出しているのです。

 詩編第1編には「主の教えを愛する人」「神に逆らう者」の対比が描かれています。しかし、私たちの生活はそのようにわかりやすくはっきりと分かれているでしょうか。神の言葉の恵みに生かされながら、それを無にするような生活も送っているのではないかと思います。しかし、私たちは終わりの日には「息あるものはこぞって主を賛美」(6節)することへとまとめ上げられていくのです。詩編第150編は津示路教会の五十周年記念礼拝で阿漕教会の加藤幹夫先生がローマの信徒への手紙第8章38、39節と共に開いてくださいました。グレーな私を手放さずにいてくださるのは主御自身です。だから、私は讃美できるのです。

January 11, 2020

先週説教要旨 2020.1.12

先週説教要旨 2020年1月12日 

「心を合わせて熱心に祈る群れ」池田慎平牧師

           使徒言行録第1章12~14節

 

 使徒言行録は、解くのが難しい書物と言われます。前半はいいけれど、後半は繰り返しが多いし、文のかたまりも長い。しかし、皆さんと共にこの書物を通して最初の教会について知ると共に、教会とは何か、事実だけではなく、真実を受け取りたいと願います。

 12節からはイエス様が天に昇られて、見えなくなってしまったその後のことが描かれています。新共同訳聖書では省略されていますが、口語訳聖書では12節のはじめに「それから」という言葉が訳されています。これは大きな「それから」です。イエス様が復活されて、共に四十日間を過ごしました。もうこれで安心だ、と思った弟子もいたかもしれません。しかし、イエス様は天へと昇られてしまった。十字架につけられた後のように、弟子たちは再び蜘蛛の子を散らすようにバラバラになってしまっただろうか。様々な思惑を受け止めながら、物語は「それから」と続いていく。弟子たちの物語はここで終わらない。イエス様が天に昇られ、そのお姿が見えなくなってから弟子たちはどうしたか。「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」のです。なぜ、エルサレムに戻って来たか。それは復活のイエス様があらかじめ言われていたことを信じてその通りにしたのです。イエス様の約束がある。彼らの歩みはそれまでのような弱々しい歩みではなかったはずです。ある牧師は、彼らはここで彼らは弟子から使徒へと変わったのではないかと言います。ルカはイスカリオテのユダを除く十二弟子のリストをここでも繰り返していますが、再びイエス様に選ばれたこの少数に、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」を加えて、イエス様のぬくもりがまだ残る馴染みの家で、聖霊を待ち望む祈りを捧げたのです。この信頼の祈りが、教会の先にあったのです。

January 04, 2020

先週説教要旨 2020.1.5

先週説教要旨 2020年1月5日 

「国を建て直すために」池田慎平牧師

       使徒言行録第1章1~11節

 

 国を建てるために、王を求めたイスラエルの物語が旧約聖書には記されています。そしてむしろ、王が与えられたゆえに神を捨てた歴史の中で、国が滅んでいくことを経験したのです。国を復興することは彼らの悲願でした。しかし、神を捨てた我々を、神はもうお救い下さらないだろう。罪の絶望に立たされていた彼らのもとに主が来られたのです。

 「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』」(6節)。洗礼者ヨハネが牢のなかから主イエスに直接問いをぶつけたように、弟子たちもまたイエス様に問います。ここでは弟子たちは、かつて王を求めたようにして求めてはいません。弟子たちは旧約聖書に預言されていたことが主イエスを通して実現していくのを、また主イエス御自身が言われていたことが実現していくのを次から次へと目の当たりにしています。目の前におられるのは御言葉の成就としての復活の主イエス。主イエスが仰っていた「神の国が来る」、それもまさに実現するのだ!弟子たちは前のめりになって、イエス様に問うたのです。神の支配がこの世界に実現するのはいつか、と。

 イエス様のお答えは、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7節)でした。冷たい答えのようですが、「神の御心に決めた時がある」「父なる神の他この時を知る者はいない」ということです。そして、それを待つ弟子たちに、主は聖霊でもって力づけてくださいます。

 詩編149編の注解で、宗教改革者カルヴァンは、イスラエルを「教会」と読み替え、教会に与えられた特別な恵みについて語っています。教会を建て直すために、今日も注がれる聖霊を受けて、私たちはまことの王なる主イエスを仰ぎます。ここから恵みが世界へ広がるのです。

December 28, 2019

先週説教要旨 2019.12.29

先週説教要旨 2019年12月29日 

「わたしたちの国籍は天にある」池田慎平牧師

         フィリピの信徒への手紙第3章15~21節

 

 本日は主の年2019年最後の主の日の礼拝です。この主の年も、礼拝から始まり礼拝で締めくくることができます幸いを感謝いたします。「主の年」と言いますが、今の私たちが用いている西暦はキリストの誕生を基準に計算されていることを、このクリスマスの祝いの時に覚えたいと思います(実際は4年ほどずれているようですが)。まもなく私たちは主の年2020年を迎えます。年が改まっても、私たちの年は、私たちの日々は主のものであり続けるのです。

 本日与えられた聖書の御言葉は、とても有名な聖句です。「しかし、私たちの国籍は天にある」という口語訳の訳が一番親しまれているかもしれません。津示路教会が使用している新共同訳聖書は、「しかし、私たちの本国は天にあります」、最新の訳である聖書協会共同訳は「しかし、私たちの国籍は天にあります」と訳しています。「国籍」とも「本国」とも訳せるのです。この言葉は対になっている言葉です。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(19節)。「彼ら」というのは、当時教会内において「完全な者」と自称する救いを自分自身で勝ち取ろうとする人々です。キリストを知っていながら、救いをキリストにかけるのではなく、自分たちの前項にかける人々ことをパウロは、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(18節)と呼びます。キリストの十字架を知っていながら無駄にしているからです。

 パウロは地上に生きるキリスト者の自由な姿を明らかにしてくれます。私たちは「この世のことしか考えて」いない歩み方ではなく、天を踏みしだいて歩むことができる。天に足をつけて歩く、天地があべこべになった不思議な人間を思います。地上に縛られない、天の国籍。そこに私たちの自由があります。

December 21, 2019

先週説教要旨 2019.12.22

先週説教要旨 2019年12月22日 

「あらかじめ決められた名で」池田慎平牧師

          フィリピの信徒への手紙第4章4、5節

          マタイによる福音書第1章18~25節

 

 クリスマスおめでとうございます!

主イエス・キリストの誕生を祝うこの日、共に読み続けてきたフィリピの信徒への手紙とマタイによる福音書からクリスマスの出来事について聴くことのできる幸いを感謝します。今日与えられたフィリピの信徒への手紙の御言葉は、『ローズンゲン 日々の聖句』が今日の御言葉として挙げていたものの一つです。神様がこの日のために用意してくださった御言葉であると信じます。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます」(フィリピの信徒への手紙第四章四,五節)。主は近い。それは物理的距離のことだけではないでしょう。主の近さはどこにあらわれてくるか。それは、私たちの救い主としてお生まれになった方が「イエス」という名をあらかじめ天から名付けられていたことによくよくあらわされています。「イエス」という名はギリシア語の響きですが、ヘブライ語では「ヨシュア」。「主は救い」という意味です。子を与えて下さった神様に感謝し、よく長男に付けられた名前だと言います。つまり、イエスというのは特別な名前ではなく、どこにでもいるよくある名前だった、ということです。わざわざ「ナザレのイエス」と出身地をつけて呼ばれるのはそれくらい、どの街にもいる名前であったからです。神がどこにでもいる普通の夫婦の間に、普通の人間としてお生まれになった。これがクリスマスの出来事です。私たちが人間として知る酸いも甘いも、そして何より私たちが抱える罪を知ってくださる。これほどまで人間に近づいた神がいるだろうか。だからこそ、この「イエス」という名は特別な、私たちを包み込む愛の名となるのです。

December 14, 2019

先週説教要旨 2019.12.15

先週説教要旨 2019年12月15日 

「わたしは誰を待ち望んでいるか」池田慎平牧師

        イザヤ書第40章1~5節

        マタイによる福音書第11章2~10節

 

 待降節第三主日の本日、与えられた聖書箇所はイエス様の道備えとして地上に与えられた洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネの問いです。ヨハネは獄中から弟子たちを送って、イエスさまに直接問います。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3節)。この問いの重点は「来るべき方」というところにあります。神からの救いは物や出来事や概念、時代でもなくて一人の人格によってもたらされることがここで言い表されているからです。しかし、なぜヨハネがこのような問いを今更ながらイエスさまに投げつけるのでしょうか。様々な理由が考えられますが、私たち自身の信仰と重ね合わせて考えてみるなら、私たちは信仰と懐疑のはざまで揺れ動いているのではないかと思います。厳しい試練の中で、このままでよいのだろうか、これで私たちは生きるのだろうか、救われるのだろうか。そのような問いに立たされる。ヨハネはその疑いを、他の人に解決してもらうのではなく、直接イエス様に体当たりのようにぶつけたのです。ここに洗礼者ヨハネの幸いがあります。

 何よりの慰めは、このヨハネの全身全霊をかけた問いに、イエス様が真摯にお答えくださったことです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人の目は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(四~六節)。これはつまり一人ひとりが抱える固有の悩みのうちに、キリストは「来たるべき方」として出会ってくださるということです。癒しを通して、神が愛なる方であり、キリストが愛への道そのものであることを御自身が証してくだったのです。

December 07, 2019

先週説教要旨 2019.12.8

先週説教要旨 2019年12月8日 

「頭を上げよう、時は近い」池田慎平牧師

         詩編第80編5~8節

         ルカによる福音書第21章25~33節

 「天体が揺り動かされるからである」(26節)。冬になると一つの楽しみは夜、教会を見上げると屋根の上の十字架に大きなオリオン座がかかる景色を眺めることです。しかし、何年も前から言われていることですが、オリオン座を構成する一つの星・ベテルギウスはもう星の寿命が近づいているとか。確かにある、ずっとあると思っていたものもいつかは滅んでしまう。物や人だけではない、価値観や常識といったものまでも。イスラエルの人々にとって確かなものは神殿でした。しかし、神殿は打ち壊され、自分たちは神の御名を呼ぶことのない民に連れ去られる。彼らの悲痛な叫びが響きます。

「万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り

 御顔の光を輝かせ

 わたしたちをお救いください」(詩編第80編)。

 しかし、旧約の民たちはその苦難も主の支配のもとにあると受け止めていました。運命なんてものではなく、苦難もまた神の出来事であると。そして、主イエスが預言される「滅び」もまた神の出来事です。私たちが滅ぼすのではない。神が終わりを来たらせられる。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32,33節)ある説教者は驚くことに、この出来事を悲嘆すべきことではなく、創造のときに神が世界を見渡して「よし」としてくださったように、この滅びもまた「よし」であると言います。あらゆる人間的なものが最後に残るのではないという御言葉における事実は、私たちにおいて慰めです私たちの罪でも、欲望でもなく、御言葉が残るのです。

 しかも、主の言葉は、言葉だけで存在することを欲したまわない。「宛先」のある言葉です。いつまでも残る言葉、それはイエス・キリストによって成し遂げられた神の出来事であり、御言葉は私たちのうちに、いつまでも存続する「信仰・希望・愛」(第一コリント13章13節)を創造するのです。

November 30, 2019

先週説教要旨 2019.12.1

先週説教要旨 2019年12月1日 

「見よ、あなたの王が来られる」池田慎平牧師

           ゼカリア書第9章9、10節

           マタイによる福音書第21章1~11節

 

 本日からアドヴェント(待降節)が始まります。「アドヴェント」という言葉には、日本語に訳されたような「待つ」という言葉はありません。アドヴェントという単語は「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来た言葉です。どなたが来られるのか。それはイエス・キリストです。そして、「イエス・キリストが来られる」と言うとき、そこには二つの側面があります。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった出来事、また終わりの日にイエス・キリストが再び来られるという将来の約束です。アドヴェントのこの時、私たちはその二つを待ち望む姿勢を新たにされるのです。

 本日開きました聖書の箇所は、キリスト教会がアドヴェントの第一主日に読んできた聖書箇所です。「キリストが来られる」という出来事を、ゼカリア書の預言の言葉になぞらえて、「王の到来」の出来事としてエルサレム入城の出来事が記されています。しかも、この王は武力によって略奪していく王ではないことを、軍馬ではなく荷を運ぶろばに乗ることによってそれを示しています。「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ」(ゼカリア書第9章10節)の言葉が成就したのです。これが私たちの王、イエス・キリストの到来のお姿です。私たちの信仰告白に「主の再び来たりたまふを待ち望む」とあるのはこの柔和な王の到来です。そして、この柔和な王は終わりの日に裁きを行われる。私たちは主の到来から再臨までを甘い気持ちではなく、緊張感をもって、備えをもって待ち望むのです。

 街では教会よりも先に、クリスマスの響きが訪れます。王の到来を知ってか知らずか待ち望んでいるのだ、とある牧師は肯定的に受け取ります。この王は十字架によって、自ら裁かれてくださった王であります。

November 23, 2019

先週説教要旨 2019.11.24

先週説教要旨 2019年11月24日 

「目標を目指して」池田慎平牧師

     フィリピの信徒への手紙3章12~14節

          

  「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(12節)。信仰の先達者であり、大伝道者であったパウロがこのように語る言葉を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。あの使徒パウロが道半ばと言っているならば、私の信仰などどれほどのものかと思うでしょうか。しかし、パウロはそのような私たちの言い訳を作り出すためにこのようなことを言うのではありません。

 パウロが得たいと願っているもの、それは「キリスト・イエスを知る」(8節)ことであり、「キリストとその復活の力」(10節)を知ることであり、「死者の中からの復活に達」(11節)することです。復活のイエス様を知っている。それは知識としてではなく、このイエス様を愛し、信頼しているということです。しかし、完全にイエス様を知っているわけではない。いまはまだおぼろげにしか見ることはできない。それでも愛することができるのは、信じることができるのは、「キリスト・イエスに捕らえられている」からです。私たちはまだ「既に捕らえたとは思っていません」(13節)。逆にキリストには完全に捕らえられている不思議な逆説があります。

 だから、パウロが「目標を目指してひたすら走る」というとき、そこには救いを求める焦燥感や不安、必死さはありません。キリストが私を捕らえてくださっている。これこそが私たちの救いの根拠だからです。太宰治著『走れメロス』において、メロスが疲労困憊の中走り通すことができたのは友情や信頼においてでありました。キリスト者がその人生を喜びのうちに走ることができるのは、キリストが私を捕らえてくださることを御言葉のうちに知るからです。後ろのもの(罪の自分)をかなぐり捨てて、私たちはキリストを深く知ることへと駆り立てられていく、それがキリスト者の生活です。

November 16, 2019

先週説教要旨 2019.11.17

先週説教要旨 2019年11月17日 

「聖なる霊に導かれて」池田慎平牧師

        使徒言行録第1章1~11節

          

 使徒言行録はルカによる福音書の続巻と言われます。それは一節に登場する「テオフィロさま」という人物名がルカ冒頭にも登場する宛名であること、「わたしは先に第一巻を著して」とあるのがルカによる福音書を指すと思われることなどからそのように考えられています。著者であるルカは福音書において、イエス様が「行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記し」たと振り返り、天上に挙げられる前のイエス様の御言葉を記して新しく第二巻(使徒言行録)を始めます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。

 普通の物語であれば、主人公が見えなくなったら終わりです。しかし、使徒言行録はイエス・キリストが天に昇られたところからその物語は始まっています。イエス様を見送って、ぼんやり天を見つめている弟子たちの姿はいかにも弱々しそうです。イエス様がいなくなってしまっては、もうすぐにでも折れてしまうように思われた彼らは、決して折れることはありませんでした。なぜならイエス様が仰ったように、聖霊なる神が彼らの内に働いて、目には見えないけれどイエス様が共にいてくださる現実を目の当たりにすることができたからです。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリント二第4章18節)。

 使徒言行録の別名。それは「第五の福音書」そして、「聖霊行伝」です。礼拝でマタイによる福音書を読み終わった私たちが使徒言行録を読む意味は、イエス様が兄弟と呼び、弟子としてくださる私たちの今生きているこの歴史も、聖霊が働いてくださる使徒言行録に続く現実であるからです。

November 09, 2019

先週説教要旨 2019.11.10

先週説教要旨 2019年11月10日 

「まずは信じてやってみよう」池田慎平牧師

          列王記下第5章8~14節(福音主義教会連合教会学校教案該当箇所より)

          

 本日読んだ列王記の御言葉は、普段聖書の中でもあまり馴染みのない書物であるかもしれません。列王記の前に置いてあるサムエル記には、イスラエル最初の王であるサウル、そしてダビデ、ソロモンが登場します。列王記にはその後の王たちが登場します。それらの王国で父なる神に仕えたのが預言者エリヤであり、本日登場するエリシャでした。

 イスラエルの敵ダマスコの将軍であったナアマンの話です。彼は重い皮膚病にかかっていました。どうしても癒されたいと願っていた。ある時、ナアマンが戦争で勝利を収めて、イスラエルから捕虜として一人の少女を連れてきます。その少女いわく、イスラエルには預言者がいて、ご主人様がその預言者のもとに行けばその病を癒してもらえる、とのことでした。ナアマンはぜひ治していただきたい、とその旨を主君であるダマスコの王に告げます。王は大事な将軍の病を癒すためならと、イスラエルの王に手紙を書き送りますがイスラエルの王は何の策略かとその手紙を破き、怒りを表しました。しかし、エリシャは「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」(8節)と使いを送りました。ナアマンは嬉々としてエリシャのもとにやってきますが、エリシャは彼に直接会わず、使いの者に「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」(10節)と言わせただけでした。ナアマンは自分が期待していた対応が得られなかったので、「身を翻して、憤慨しながら去って」(12節)行きました。しかし、部下たちに説得されてとりあえず身を浸してみたのです。すると、彼の体は清くなったのです。そして、彼は神の前に出る者となりました。

 神様は私たちの期待通りの救いは与えないかもしれません。しかし、私たちの期待以上のものをもって私たちを救ってくださる方です。

November 02, 2019

先週説教要旨 2019.11.3

先週説教要旨 2019年11月3日 

「キリストの死による愛」池田慎平牧師

          ローマの信徒への手紙第5章1~11節

          

 本日は召天者記念礼拝として、召天者を覚えて礼拝を捧げています。召された者においても、今生きて主を礼拝する私たちにおいても、共通するのは、「神との間の平和を得て」いる(1節)ということです。そして、その平和をどのようにして得たか。そして、その平和に私たちはどのようにして生きるのか、それが、パウロがここで語っていることです。

 「苦しい時の神頼み」とよく言いなすが、しかしパウロは神を信じる生活の中で味わう苦難を語ります。そして、「苦難をも誇りと」(3節)するのです。なぜなら、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(3,4節)という道筋を知っているからです。苦難が苦難のまま終わらないことを知っているからです。「忍耐」は、直訳すると「下に留まる」という意味の言葉です。キリスト者は何の下に留まるのか。苦難の下に留まるのではありません。キリストの下に留まる。苦難は私たちをキリストの下から引きずり出そうとしますが、しかし、私たちは希望によって支えられて、キリストの下に留まることができるのです。その「希望はわたしたちを欺くことがありません」(5節)。なぜなら、父・子・聖霊なる神によって保障されている希望だからです。「主イエス・キリストによって」(1節)、「キリストのお陰で」(2節)、「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより」(8節)、「キリストの血によって」(9節)、「キリストによって」(9節)、「御子の死によって」(10節)。パウロはしつこいくらいに繰り返します。

 神との間に平和を得たのは、私たちの修行の結果、苦難を自ら引き受けて、それに勝ち得たからそれを得たのではありません。貧しい人と同じ立場になって、それらの人たちのことをわかったような顔でいる人がいますが、本当に私のことを知ってくださるのはキリストだけです。だから、パウロは私が今立っているのはキリストによる恵みの場所であることを強調するのです。

October 26, 2019

先週説教要旨 2019.10.27

先週説教要旨 2019年10月27日 

「その苦しみにもあずかる」池田慎平牧師

          フィリピの信徒への手紙第3章10~11節

          

  パウロはたびたび「キリストを知る」ということを強調します。それは当時の時代状況が影響していたかもしれません。当時のローマ世界には、「神を知る」ということを大事にする、知識主義(グノーシス主義)という思想が蔓延し、キリストなどというものは知識からいうとはなはだ貧弱で、それでは本当の救いは得られないだろうと言っていたのです。パウロはその潮流に対抗するようにして、本当の知識とはキリストを知ることに他ならないと「キリストによって神を直接に知る」ことを言っているのです。

 キリストを知るとはどういうことか。第一に、「キリストとその復活の力とを知」る(10節)ということです。キリストを知る、ということはただ単に知識として知る、ということだけにとどまらず、キリストを信じることであり、愛することです。だから私たちの生活の中で新たにキリストを知っていく歩みに終わりはありません。

どんなキリストを知るのか。それは十字架につけられたキリスト(コリントⅠ第2章2節)であり、イエス・キリストの復活の力です。ここで使われている「力」という言葉は、ダイナマイトの語源となった言葉です。爆発するような力です。文字通り、死も罪の力も爆破してしまったのです。これは人間にはない力です。このキリストの復活の力にのみ、私たちが新たに生きる道が開かれるのです。そして、この復活の力、それは今生きて働いておられるキリストの力でもあります。神と同じように、キリストがいま生きておられ、私たちの罪のために祈り、助け手となっていてくださるのです。

 「キリストを知る」ということで、パウロが語るのは「その苦しみにあず」かる(10節)ということです。復活の力を知るにはどうしたらいいか、それは苦難の交わりを知るということです。キリスト者として受ける新たな苦しみ。しかし、それは一人で戦うのではなく、共に苦しむ戦いです。

October 19, 2019

先週説教要旨 2019.10.20

先週説教要旨 2019年10月20日 

「世の終わりまで共にいる」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第28章16~20節

          

  「さて」。イエス様のご復活を知らせる福音書の記事は、この小さな言葉で始まります。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(二八章一節)。この「さて」は、「それにもかかわらず」という意味を持っています。二七章にはイエス様を葬った墓には大きな石で封印がなされ、番兵が置かれたことが書かれています。弟子たちを含め、多くの人々はイエス様が復活するとは思っていなかった。人々の常識の中に、当たり前の中に「復活」はなかった。「それにもかかわらず」、この方は復活してくださったのです。私たちの常識や当たり前を打ち破って。私たちが主イエスの復活を信じる信仰、それはいつも「にもかかわらず」の信仰です。

 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)。復活を信じない者たちの悪評が立てられます。しかし、「にもかかわらず」弟子たちはイエス様があらかじめ言われていた約束の地に立ちます。そこで復活の主イエスとお会いするのです。「しかし、疑う者もいた」(17節)とはリアルな言葉ですが、しかしそれによっても復活のイエス様の事実が変わらないことを示す言葉でもあります。復活のイエス様は、弟子たちにいわゆる「大宣教命令」と呼ばれる命令を与えます。すなわち、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令です。弟子というのは、師の生き方を歩む者です。キリストが師となってくださる。私たちはキリスト者であり、キリストの弟子であります。キリストは私たちの兄弟となり、師となり、また世の終わりまでいつまでも共にいてくださる者となってくださいました。「世」は時代を表します。キリストがいないように見えるこの時代にも、主は毎日共にいてくださることを知ります。個人として、また教会として。

October 12, 2019

先週説教要旨 2019.10.13

今週の「先週説教要旨」はお休みします。 

 2016年4月から続いたマタイによる福音書連続講解は本日で終了です。11月から「使徒言行録」の連続講解が始まる予定です。

 聖書研究祈祷会は「詩編」の後、「箴言」を学ぶ予定です。

October 05, 2019

先週説教要旨 2019.10.6

先週説教要旨 2019年10月6日 

「約束の街、復活の朝」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第28章1~10節

          

  夜の闇を切り裂いて、主は朝を来たらせてくださいます。詩編139編には、「曙の翼を駆って海へ行き着こうとも」と、昇ったばかりの太陽の光が羽のように大地に延びていくのを詩的に表現した言葉があります。イエス様が復活されたのは、そのような朝の光がまぶしい時間帯、当時の安息日の翌日、すなわち私たちの安息日の朝でありました。

 「そこで彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた」(27章66節)。ファリサイ派と祭司長たちによっておかれた番兵たち、すがるような思いで墓の前に来た婦人たちは思いがけず、イエスの復活の証人となりました。主の天使が石をわきへ転がすのは、イエス様をそこから出すためではなく、空っぽの墓をマリアたちに見せるためだったのです。天使の言葉には注目すべき点があります。イエスの復活を告げる動詞である「復活なさった」(6節)、「復活された」(7節)は受動態で書かれてあり、直訳すると「よみがえらされた」となります。イエス様は「自分を救ってみろ」という嘲りの言葉ではなく、徹頭徹尾、復活という神の力による出来事に身を委ねられたのです。

主の天使の口を通して、「ガリラヤ」がイエス様と再会する場所として弟子たちに伝達されます。ガリラヤは多くの弟子たちの出身地です。ただ単に約束の地ではありません。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見」(マタイ4章15~16節)と関連し、弟子たちにとって、また復活のイエス様が迎える世界にとって新しい出発点となる場所となったのです。

 主の天使、また復活のイエス様から「恐れることはない」の御言葉が語られます。この言葉は、イエス様の誕生の時から語られた御言葉です(ルカ2章10節など)。そして、復活の時、この言葉はまことの言葉となるのです。私たちの死に、絶望に、悲しみに先回りして迎えてくださる復活の主イエスがおられるからです。この方が私たちを「兄弟」と呼んでくださいます。

September 28, 2019

先週説教要旨 2019.9.29

先週説教要旨 2019年9月29日 

「陰府に下り給う神」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第27章57~66節

          

 今朝読んだ聖書箇所には、十字架の上で死なれたイエス様を墓にお納めするという非常に事務的なことが書いてあるだけと思われるかもしれません。けれども、ここで私たちが慰めとして受け取るのは、イエス様もまた墓に葬られた、ということです。私たちの誰もが墓に葬られる日が来る。無限の暗闇に放り出されるような不安がある。しかし、その暗闇をイエス・キリストが知らなかったはずはない。それどころか、このキリストは私たちがその死でもって知る最大の暗闇のさらにもっと深い暗闇へ、裁かれた罪人として身を横たえてくださったのです。

 そのような意味で、使徒信条にある「陰府に下り」はまさに私たちの慰めであるのです。「陰府」は聖書には、「地の底の穴」「影に閉ざされた所」「暗闇の地」と表されます(詩編第八八編)。そこは神の「御手から切り離され」(詩編第八八編)、神の御声も眼差しも届かない場所として語られます。カルヴァンは十字架上の叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」に主イエスが下り給うた陰府を見ています。イエス様は精神的にも物理的にも陰府に下り給うたのです。それは何を意味するのか。この方にわからぬ苦しみ、悲しみはないということです。誰にもわかってもらえなかったわたしの暗闇を、この方だけはわかってくださるということです。

 イエス様の亡骸を受け止めたのは、聖書に登場する3人目のヨセフ。アリマタヤ出身で、金持ちであったユダヤ人です。キリストの十字架は、いわば敵の中にあったこの人に前に出る勇気を与えました。その結果、キリストは新しい布にくるまれ、まだ誰も入れたことのない新しい墓へ納められ、王としての葬りがなされたのです。キリストは死に、私たちは生きる(50~52節)。その不思議な息吹がここにも、そして私たちのうちにも巻き起こっています。

September 21, 2019

先週説教要旨 2019.9.22

先週説教要旨 2019年9月22日 

「神の強さを身に受けて」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第27章45~56節

          フィリピの信徒への手紙第4章13節

  

 マタイによる福音書を読み進めてきまして、今日私たちは十字架の上で死なれたイエス様を共に見上げています。今日は津示路教会の教会創立記念礼拝です。私たちはこの日、何を記念するのか。「記念」という言葉を聖書の中に探してみると、「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」(詩編第111編4節)など「主の御業」を記念(想い起こす)意味として用いられています。そして、新約聖書では主に「記念」の言葉はイエス・キリストの十字架を現す言葉となります。「感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたし(イエス)の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」(コリントの信徒への手紙第11章24節)。私たちはいつも、キリストの十字架の死を思い起こし、それを告げ知らせるのです。

 マタイが語る十字架の出来事と共に、年間標語でもあるフィリピの信徒への手紙第4章13節の御言葉を読みました。十字架において、神が神としてもっとも弱くなってくださった。その弱さこそ、イエス・キリストの叫びです。その弱さによって、わたしたちは強められる。キリスト教はわたしが強くならねばならない宗教ではない。明日も婦人会の修養会があります。修養とか修行というと、私をどうにかして弱い気持ちを強くするか、などと考えるかもしれないが、そうではなく私たちは弱いままでいい。キリストの十字架を見つめ、自分の罪を知る。そこに審きがあり、救いがある。そこでしか、私たちは私たちに対する罪を赦すことはできない。

 詩編第135編では、これまでの神の救いの歴史を振り返りながら、「慈しみはとこしえに」とうたわれています。かつて生きておられた方は今も生きており、そしてとこしえに生きて働かれるお方です。

September 14, 2019

先週説教要旨 2019.9.15

先週説教要旨 2019年9月15日 

「彼の受けた傷によって」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第27章27節~44節

  

 総督の兵士たちから囲まれて嘲笑されるイエス様です。彼らはイエス様を王様に見立てて跪き、はやし立てています。彼らは嘲りからそれをしていますが、しかし、知らない間にふさわしいことをしているのです。

 私が大学生の時に『パッション』というイエス様の受難を描いた映画が公開されました。「パッション」という英語は日本語では「情熱」とも訳される言葉です。しかし、元になったラテン語には「苦しむ」という意味があります。「情熱」と「受難」、一見すると無関係に見える言葉は、イエス様の十字架に現れています。人間を救う神の情熱と、キリストの情熱です。

 イエス様は黙して語りません。人々の嘲笑にも、黙って耐えておられます。その姿はまさにイザヤ書第53章に預言されている「主の僕」の姿です。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(2節)。しかし、鞭打たれ、嘲られ、十字架につけられるこの弱弱しさに、神の全能が現れていると私は思います。「自分を救ってみろ」と言われても、「十字架から降りて来い」といわれても、それをしない。ここにはそのような神の自由と全能とがその頂点に達しているのです。「他人は救ったのに、自分は救えない」(42節)。救えないのではない。自分を救わない、明確な意志があるのです。そこに神の全能をお用いになるのです。

 福音書は、十字架刑の細かいところには言及しません。それよりもむしろ、イエス様がののしられた言葉に注目しています。彼らの言葉もまた、彼ら自身が知らないうちに、イエス様の生涯を物語っているのです。「神に頼っているが」(43節)。イエス様の生涯は父なる神に頼った歩みでした。そして、兵士たちがイエス様の服を分け合うという細かい行動(35節)までも、聖書の言葉が実現するためであった(ヨハネ十九章二四節)。彼らは知らない、しかし神の御心がそこにもまた確実に働き、神の勝利があるのです。

September 07, 2019

先週説教要旨 2019.9.8

先週説教要旨 2019年9月8日 

「大衆の愚かさ」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第27章11節~章26節

  

 イエス様の沈黙はなおも続いています。それはイエス様を裁く最終宣告がなされる総督ピラトの前でも変わりません。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。私たちが日曜日ごとに信仰を言い表す使徒信条は、その名の通り使徒の時代から信仰の言葉として用いられています。その頃からいままで「ポンテオ・ピラト」の名はイエス様を苦しめた者の名として海を越え、世界中に知られているのです。それはイエス様が確かに歴史の中で十字架刑に処せられたことを示す名であり、また人間の権力によってイエス様が苦しめられたことを覚えるためでもあります。権力とは特権者だけが持ち得るのではなく、私たちのうちにもある自己実現の思いでもあります。

 「ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた」(15節)。群衆は総督から選択を迫られます。今日の箇所をあらためて読みながら、驚かれた方もあるかもしれません。バラバは、正しくは「バラバ・イエス」という名であったのです。バラバ・イエスか、メシアと呼ばれるイエスか、二人のイエスのどちらを釈放してほしいのか。バラバについて福音書はあまり多くを語りませんが、一言「評判の囚人」と言われています。イスラエルの解放のために強盗や殺人を行ったと考えられています。人々は祭司長や民の長老たちに「説得」させられて、「バラバ」を選びます。バラバは釈放されて、キリストの十字架の最初の恩恵にあずかった人となりました。理由なしに、まったくの資質なしに、突然死刑にされるはずだったところからその日のうちに自由にされたのです。私たちがいただくイエス様の十字架の恵みもこれと同じです。

神様は人の言葉に惑わされやすい、私たちの愚かさをも用いながら、私たちの救いを成就されようとなさいます。しかし、いまや神の御心を知っている私たちが愚かなままでいてよいでしょうか。

August 31, 2019

先週説教要旨 2019.9.1

先週説教要旨 2019年9月1日 

「御言葉を思い出す」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第26章69節~27章10節

  

 ここにはぺトロとユダという、それぞれの仕方でイエス様の弟子となった男たちが、イエス様が逮捕された後にどうしたか、その姿が描かれています。どちらがよかった、というわけではありません。両者とも、イエス様に従い抜くことに失敗したのです。絶望の淵に立たされたのです。しかし、その絶望がどこへ向くのか。それがとても大事です。

 端的に言えば、ペトロとユダの違いは、「悔い改め」と「後悔」の違いです。失敗を誰が受け止めてくれるか。ペトロは「イエスの言葉を思い出し」、「外に出て、激しく泣いた」のです(75節)。それに対してユダはイエスを売った祭司長や長老たちに銀貨を返して罪を告白しますが、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」(4節)、すなわち自分で始末しろ、と突き返されます。罪を正しく処理することができるのは、神のみです。私たちを本当の悔い改めへと導くのは、私たちの良心ではなく、御言葉を思い出す、ただこのことによります。

 キリスト者であれば、祈った経験はもちろんですが、「祈ってもらった経験」というのが誰にもあるはずです。私たちの信仰はそこに立ちます。そして、ペトロの信仰も、ペトロ自身にその根拠があったのではありませんでした。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)。

 御言葉を思い出す。それは、記憶力とは関係のない、聖霊の働きでしょう。讃美歌第二編一六七番「我をも救いし」の作者ジョン・ニュートンもまた命の危機に瀕した時に、御言葉を思い出し、こんな自分をも救い出してくださった「アメイジング・グレイス(驚くべき恵み)」に目が開かれたのです。

August 24, 2019

先週説教要旨 2019.8.25

先週説教要旨 2019年8月25日 

「キリストを食い尽くす熱意」池田慎平牧師

            マタイによる福音書第26章57節~68節

  

  逮捕されてすぐに大祭司カイアファに裁かれるイエス様の姿があります。イエス様がいよいよ敵の中枢部へと引かれていくのです。そこは荒れ果てた盗賊の洞窟でも、ならず者たちの集まる酒場でもなく、正しく生きる道を追及する者たちの家の中庭でした。

ここには、イエス様を取り囲むふたつの視点があります。大祭司を含め憎悪のまなざしで見つめる群衆たちの視点、そして遠く離れた場所からイエス様を見つめるぺトロの視点。どちらもイエス様から遠く離れている点で共通しています。片や当時の宗教者の中心、片やイエス様の最もそばにいた一番弟子。このどちらもがイエス様を妬む思いで、またイエス様を恥じる思いで、神が与えた神の子イエス・キリストから遠く離れて、すなわち自らの本来の姿である神の子の姿からも遠くあるのです。

 イエス様を死刑にする裁判は異例の仕方で迅速に行われていきます。それほどまで、イエスを殺さずにはおれない。自らを確かなものにするために、イエス様にいてもらっては困るのです。自分が揺らがないために、神をただの一度も冒涜したことのない方を冒涜者として裁く私たちのどうしようもない罪がここにあります。

そのようにイエス様を「食い尽くす熱意」(ヨハネ第2章)のなかにありながら、イエス様は沈黙しておられます。これはまた神の沈黙でもあります。なすすべなく沈黙されているのではありません。そうではなく、この沈黙は、父なる神もキリストも、十字架を通して私たちを救う意志を決して変えることをしないという決意の沈黙なのです。ここにはイエス様を妬み、イエス様を恥とする熱意に勝る、静かにめらめらと燃えたぎる神の熱意があります。キリストを食い尽くしてでも、私たちを救い出したい天の父の熱意です。その熱意の前に、私たちの妬みや恥は燃え尽きてしまうのです。

August 17, 2019

先週説教要旨 2019.8.18

先週説教要旨 2019年8月18日 

「神の国から遠くない」髙橋亜希子神学生(東京神学大学)

 ホセア書第6章1~6節・マルコによる福音書第12章28節~34節

  マルコ12章28節以下には、律法学者がやってきて、主イエスに問いかけた話が記されています。この律法学者は、旧約の律法のうち第一に守るべきものは何か、救われるためには、どの律法を遵守すべきかと問いかけました。主イエスは第一の掟として、申命記6章「神を愛しなさい」を、第二の掟としてレビ記の「隣人を愛しなさい」の戒めを挙げられました。私共の人生において、最も重要なことは神に対する態度です。すべてが、それに掛かっています。人として生きられた主イエスは、神の御子であります。主イエスが私共に望む第一のことは、私共が自らの命以上に主イエスを愛することです。ただ主のみを神とし、神を愛することに、こころと生活、意思と行動のすべてを傾けるのです。 律法学者の問題は、神を愛し、人を愛することを律法の文言の上では知っていながら、真の意味で律法に生きることができていないことでした。主イエスに問題を見抜かれた律法学者は「そのとおりです」と、主イエスの教えの正しさを強調しました。これまでに登場したファリサイ派の人びとや律法学者たちは、律法の細かい部分に捉われ、真意から大きくかけ離れたところを歩んでいました。そこで、主イエスは、この律法学者に「神の国から遠くない」と仰ったのです。私共が神の国に入るためには、何が必要なのでしょうか。 罪を持ってこの世に生まれ落ちた私共ですが、神さまは、生を受ける遥か前から私共を愛してくださっています。人として地上を生きられた主イエスは、罪を持った私共のために十字架に掛かり、私共を救うために苦しみをお受けになり、私共のために死んでくださったのです。その、主イエス・キリストを信じている私共は、ただ、主のみを神とし、従って行かずにはいられないのです。主イエスを信じて告白し、洗礼を受けた私共は愛されています。神の国へと招き入れられています。主イエスの深い愛によって、私共は神を愛し、隣人を愛する者へと造り変えられていくのです!(要約文責・髙橋神学生)

August 10, 2019

先週説教要旨 2019.8.11

先週説教要旨 2019年8月11日 

「剣を取る者は、剣で滅びる」池田慎平牧師

             マタイによる福音書第26章47~56節

 

 イエス様が三度予告をしておられた出来事が、実際に起こる時が来ました。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」(20章18節)。イエス様が逮捕される。その出来事が起こったとき、「イエスと一緒にいた者の一人が」剣を抜いて切りかかるという事件が起こります。ヨハネによる福音書にはこの一人がシモン・ペトロであることを書いています。ペトロは剣の名手であったわけではありません。彼は恐ろしかったのです。イエス様を取り囲む「祭司長や民の長老たちが遣わした大勢の群衆」(47節)も恐れに取りつかれていました。そのことはイエス様御自身によって批判されています。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえなかった」(五五節)。恐れに支配された人々が、イエス様の周りで剣を振るいます。しかし、ここで主イエスは「剣を取る者は、剣で滅びる」(52節)とペトロに言うのです。

 剣で戦っても勝ち目がないからでしょうか。いあや、そうではありません。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(53節)とあるように、群衆を圧倒する力をお持ちでなかったはずはないのです。しかし、主イエスはその剣を抜かないのです。「剣をさやに納めなさい」(52節)。剣に囲まれ、暴力で支配されている世界で、むしろ剣をお捨てになる。十二軍団以上の天使という剣をイエス様自身が用いられなかったのです。それは「聖書の言葉が実現」(54節)するためです。御心が現実のものとなるためです。父なる神が私たちに注ぐ愛が成就するためです。そのために、主イエスは大胆にその剣を捨ててくださる。その主イエスの前には悪もまた姿を現さないわけにはいかないのです。

August 03, 2019

先週説教要旨 2019.8.4

先週説教要旨 2019年8月4日 

「心は燃えているか」池田慎平牧師

             マタイによる福音書第26章36~46節

 

 イエス様は「ゲツセマネ」、すなわち「油絞り」と解されるその場所で、まさに祈りの格闘をされました。「一時」(40節)という言葉は人によって違うかもしれませんが、原語では二時間を表す言葉だそうです。そのような祈りを三度繰り返された。「うつ伏せ」(39節)になって神様の前にすべてを投げ出すようにして。「死ぬばかりに悲しい」(38節)思いを胸に。これほどまで激しい祈りをなぜイエス様は捧げたのでしょうか。

  マタイにしかない言葉で、「わたしと共に」目を覚ましていなさい(38節)という言葉があります。私も目を覚ましている、だからあなたも目を覚ましていてください、と頼んでいます。それはイエス様と共に目を覚ましていると、罪が眠るからです。私たちを眠らせる罪が、逆に寝入ってしまうからです。そして目を覚ましているというのは、ただ目を見開いているだけではありません。きちんと見るべきものを見ることです。見るべきもの、それはイエス様の祈るお姿です。そして、イエス様が見つめておられるものです。

  イエス様は不思議な言葉を語りました。「心は燃えても、肉体は弱い」(41節)。心は「霊」という言葉、「燃える」は前に向く、前進するという意味です。神の霊は前進する。しかし、「肉」で言い表される人間そのものは弱く、霊の前進についていくことができず置いてきぼりに、いや真逆を歩き始める。その人間の悲惨さをイエス様は知っておられた。だからこそ、共に目覚めていることを求めるのです。

  イエス様が祈りのなかで見たもの、それは私たちが人間として苦しまねばならなかったはずの、罪人としての死です。イエス様は私たちの弱さをその身をもって知っていたがゆえに、私たちの負うべき苦しみを代わって引き受けてくださった。目を覚まして主の苦しみを見る、それはこの方によって私たちがその苦しみを見なくてもよくなったという恵みを見つめることです。

July 27, 2019

先週説教要旨 2019.7.28

先週説教要旨 2019年7月28日 子どもと大人の合同礼拝

「目からウロコ」池田慎平牧師 使徒言行録第9章1~19節

 今日の聖書に登場するサウロという男は、後にパウロという名前でイエス様の弟子として当時の全世界に福音を宣べ伝えた人です。しかし、彼は初めからイエス様の弟子であったわけではありません。それどころか、イエス様を信じる者を迫害し、捕らえるために情熱を燃やしていた人でした。彼は「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで・・・この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」(1,2節)べく鼻息荒く、自信に満ち満ちて出発します。彼は生まれも育ちもエリートで、自分こそ神の道をまっすぐに歩んでいると思っていたのです。自分の目はまっすぐに正しいものを見ている、そう思っていました。しかし、彼は突然イエス様と出会わされたとき、自分の目が全く見えていなかったことに気付かされたのです。「目を開けたが、何も見えなかった」(8節)。

 イエス様を信じる、ということは端的に言えばそういうことです。自分の目が見えていなかったことに気付かされ、新たに現実を見る目を与えられる、ということが信仰です。『ナルニア国物語』の作者であるC.S.ルイスも、無神論者であった立場から、新しい目を与えるキリスト教信仰に再び目を開かれた人の一人です。彼は『ライオンと魔女』のなかで、ただの少年少女たちがナルニアの国では王子王女として迎えられる姿を描いています。自分では知らなかった価値を与えられていることに気付く物語です。

  私たちの愛や情熱は大きく曲がっていくとき、それは憎悪に変わっていきます。しかし、サウロはくしくも「直線通り」(聖書協会共同訳「まっすぐ」)で、目からうろこが落ちて、まっすぐに現実を見ることができるようになりました。私たちも愛に挫折するとき、自分の目が見えないことを悟らされながら、まっすぐ見える目(信仰)を与えられて、新しい現実を生き抜いていこうではありませんか。

July 20, 2019

先週説教要旨 2019.7.21

先週説教要旨 2019年7月21日 

「最後の晩餐」池田慎平牧師

          マタイによる福音書第26章26~35節

 

 イエス様が地上で十字架におかかりになる前に弟子たちと共にしたのは、食事をとることでした。それはただの食事ではありません。「約束の食事」でありました。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(28節)。 食事をとる、ということは食事をとる相手と特別な関係であることをあらわします。イエス様が地上で最後に食事をとられる、というのは弟子たちと特別な関係を結びたいと願ったからです。

 さらにイエス様は「わたしの父の国であなたがたと飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言ってくださいました。それはとりもなおさず、神の国に私の席を用意してくださるということです。また私たちと食事をとってくださる。その日が来る、と言うことです。

 しかし、イエス様はこの食卓が弟子たちの憎しみと絶望と裏切りに満ちていることをご存知でした。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」(31節)の預言がこれから実現するのです。弟子たちは必死でした。そんなことがあってはならない。「わたしは決してつまずきません」(33節)という言葉は、必死になって絶望しないように、自分たちの欲望や裏切りに抗する言葉であったでしょう。しかし、彼らは負けてしまう。絶望に飲み込まれてしまう。ぺトロはイエス様のことを三度も知らないと言ってしまう。

 だからこそ、イエス様は「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(32節)と言われたのです。すべてのことに先だって、先回りしていてくださる。最後に立つのは、私たちの憎しみや裏切りではない。復活のイエス様が立ってくださるのです。

July 13, 2019

先週説教要旨 2019.7.14

先週説教要旨 2019年7月14日 

「異邦人に福音が伝えられる」丸田久子牧師(四日市幸町教会)

                  使徒言行録第11章4~18節

 ユダヤ人同士にだけ許されている食卓の交わりを、異邦人と持ったことでペトロが批判されています。キリスト教に回心した今もユダヤ教の考え方に捕らわれている彼らにペトロはヤッファで経験した不思議な出来事を話し始めます。カイサリアの百人隊長のコルネリウスは異邦人でありながら神を畏れて祈る信仰心の篤い人です。ある日、神の天使が現れてあなたの信仰が神に覚えられた。「ヤッファのペトロと呼ばれているシモンを招きなさい」。彼は召使と側近の三人をヤッファに送り出した。ヤッファにいるペトロは幻の中で天の窓が開いて律法で禁じられている物が降されそれを食べるように命じる天の声がした。拒否するペテロに「神が清めた物を清くないなどとあなたは言ってはならない」と再び声がした。律法で禁じられている物を食べるように言われることと同じように、ユダヤ人が異邦人を受け入れることはとても難しいのです。こを感じます。人の都合に合わせて作った律法に従うのか、それとも天からの声に従うのか二者択一を迫られています。

神が伝えようとされる意図を理解しないままペトロは、今見た幻は何だったのか途方に暮れます。そこに三人の人が到着しました。このときもペトロに「ためらい」がありました。ペトロの「ためらい」は古い律法のように福音の広がりを妨げるようなものです。聖霊の導きによって得たこの機会を逃さずに立ち上がり福音のために行くように勧めます。翌日ペトロはカイサリアに向かいます。ペトロを迎えたコルネリウスは自らの信仰に従って足元にひれ伏し拝みました。天から下された食べ物に示されていた教えがこの時、ペトロに明らかにされました。そしてユダヤ人が外国人と交際したり訪問したりすることは、律法で禁じられているけれども「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」それは異邦人を受け入れることができるように神が前もってお示になったものでした。そしてコルネリウスも幻の中でペトロを招いて話を聞くように天使に命じられたこと、そして話しを聞くために神の前に今立っていることに感謝の言葉を述べています。そしてペトロから一連の救いのできごとについて語られました。その福音を聞いてコルネリウスの家族や友人たち一同の上に回心が起こって聖霊が降り、彼らは異言を語り、神を賛美した。この光景を見たペトロの兄弟たちは、自分たちが経験した聖霊降臨が異邦人たちにも起こったことに非常に驚きました。聖霊は力強く働いて、あらゆる人々を教会に招いてイエス・キリストの福音を伝えさせるのです。

July 06, 2019

先週説教要旨 2019.7.7

先週説教要旨 2019年7月7日 

「裏切り者たちの食卓」池田慎平牧師

マタイによる福音書第26章14~25節

 

 イエス様が十字架におかかりになられる前に、どうしてもなさりたかったこと。それは弟子たちと食事をされることでした。ただの食事ではありません。エジプト人の奴隷であったときに、父なる神がイスラエルの人々を解放して自由にしてくださったことを覚える大切な食事です。除酵祭、過越の食事とは、エジプトを去るとき、大急ぎで作った酵母を入れない(除酵)パンを食べ、汚れのない小羊を屠(ほふ)ってその血を門に塗ることで神の打つ手を過ぎ越した(過越)ことを覚える祭りの食事です。ここには、すべての者を罪から救うためにその血を流される汚れのない小羊としてのイエス様が示されています。「わたしの時が近づいた」(18節)とはそのことです。

 「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」(20節)。この言葉は何気ない言葉ですが、意味深い言葉であると思います。すでにイスカリオテのユダは、イエス様を勝手に見限って、祭司長たちと銀貨三〇枚で引き渡すことを約束していたのです。そして、イエス様もおそらくそのことを知っておられた。しかし、それでも共に食事をなさったのです。ここにはそのような緊張感があります。天の父の御心があり、イエス様の思いがあり、ユダの心があって三つ巴になっているのです。

 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21節)。イエス様が発したこのお言葉に、弟子たちは動揺します。「主よ、まさかわたしのことでは」と口々に言い始めます。ユダも同じことを言ってお茶を濁すずるさがあります。イエス様は裏切ろうとしている者が誰か明確には語られません。しかし、「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(24節)はユダに対するイエス様の最大限の憐れみです。これからユダが辿る道を思うとそう言わざるを得ない。ユダはどうなったのか。一つには、「陰府に下」(使徒信条)られたイエス様はユダに会われたのではないか、と。罪でしかない者を憐れむイエス様の愛の深さを知ります。

June 29, 2019

先週説教要旨 2019.6.30

先週説教要旨 2019年6月30日 

「キリストのゆえに」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第3章8~9節

 

 「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(8、9節)。

 自分の義を自分で立てることができるか、というのがパウロの指摘することです。答えはノーです。それをパウロは自分の身を指すことによって、それを明らかにしようとしています。パウロがここで「塵あくた」と呼んでいるもの、それは当時自分の義を追い求める者たちがこぞって欲しがったものであり、欲しくても手に入れることのできないものでした。それを「塵あくた」、つまりいらないものと言えるのは、それをはるかに越えるものを手にしたからです。それが「キリストを知」るということです。キリストを知るとは知識ではなく、この方が私の主であることを知ることです。

 私たちを義としてくださるお方は、ただお一人です。ある説教者は、自分の義を立てようと自分に頼ることと、神の義も一応追い求めておこうという二股状態が最も罪深いと言います。神を知ったはずの者が、神のみが私を義としてくださると一度は神を畏れた者が、また自分の義を立てることへ戻っていく。それは神の力を侮(あなど)ることでもあります。それほどまでに、私たちの罪は根が深いのです。

 パウロもまたその弱さを知っています。パウロもまた自分が完成したとは言っていません。だからこそ、終わりの日に私たちを完成させてくれる日を待ち望んでいるのです。神様はその創造のときに、人間をはじめ創られたものすべてを見渡しながら、それを「極めて良い」と祝福してくださいました。私たちは礼拝ごとに、神様からの祝福の声によって、自分の義ではなく、神様が私たちを「義し」としてくださっている御言葉に聞き続けます。そのようにして、忘れていた私の本来の姿をキリストの内に発見し、それを取り戻しながら終わりの日に向かってまた歩み出すのです。

June 22, 2019

先週説教要旨 2019.6.23

先週説教要旨 2019年6月23日 

「愛の無駄遣い」池田慎平牧師

マタイによる福音書第26章1~13節

 

 マタイによる福音書の第26章に入りました。「イエスはすべての言葉を語り終えると」という言葉から始まっています。「これらの言葉を語り終えると」とマタイによる福音書はこれまでにも四度書いています。そして、五度目のこの時、「すべて」を書きました。イエス様が地上のご生涯で語られることはすべて語り尽くされた。あとは十字架につくという最大の仕上げが待っている、と言うように弟子たちに「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(2節)と言われます。

 祭司長や民の長老たちは、祭の間はイエス様を捕らえるのをやめようと思っていました。しかし、イエス様の十字架は人の企てではなく、主の企てです。人間の思い通りにはいきません。イエス様を十字架につける、決定的なきっかけとなった事件が起こりました。イエス様が常宿にされていたベタニアの重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」(7節)のです。油を注ぐ、というのはイスラエルにおいて旧約以来特別な意味がありました。「この人こそ王(メシア)だ」ということです。この女性の生活すべてをかけた信仰告白です。イエス様はこの不思議な出来事を「わたしを葬る準備」(12節)と喜んでくださいました。しかし、弟子たちは違いました。それを無駄遣いだ、と批判したのです。

 なぜ、この一人の女性の出来事が、福音が語られるところでイエス様の記念として語られる(13節)のか。それはこの女性がイエス様を目の前にして、そうせざるを得なかった「愛の無駄遣い」を、誰よりも神様が成し遂げてくださったことを知るからです。私たちを救い出すために、神はその独り子をお与えになることを厭(いと)わなかった。香油どころではない、ご自分の愛するその独り子を、私たちのために捧げてくださった。この方の愛が私たちに注がれているのです。私たちが愛を惜しんでいる場合ではありません。この愛に応えて隣人を愛していく、そこに私たちの伝道があります。

June 15, 2019

先週説教要旨 2019.6.16

先週説教要旨 2019年6月16日 

「祝福と呪い」池田慎平牧師

マタイによる福音書第25章31~46節

 

 ここでは十字架を前にしたイエス様の説教が語られます。それは世の終わりの出来事についてであり、クリスチャン問わず、また生きている者も死んでいる者も、全世界の人々が「人の子」(イエス様)の前に集められるという壮大な出来事についてです。イエス様はここで王であり、羊飼いであり、また弱き人間として人々の前に立ちます。人間も天使たちも皆集められる世の終わりに、イエス様は何を見られるか。自分でも覚えていないような、小さな小さな良き行いです。この箇所を一見すると、終わりの日にはすべて「行い」によって裁かれているように見えます。それはひとつの真実でしょう。しかし、ここで語られている「行い」とはいかなる行いであり、業(わざ)であるのか。それはこれまでファリサイ派との対立の中で語られてきた、信仰と対立するような「行い」ではないのです。

 ここで語られているのは、忘れてしまうような小さな善です。イエス様は「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35,36節)と言います。しかし、人々はそれを覚えていないのです(37~39節)。それはからし種のような信仰と重なる、小さな、自由な善です。ファリサイ派のように、自分の救いのために積み上げた善とは異なります。人の子は、羊と山羊と見分けのつかない集団を終わりの日にお分けになります。羊は一人で生きていくことができない(神なしに生きていくことができない)ことを知っている謙遜な人、山羊は一人でも生きていけると思い込んでいる人、権力を持っている者、傲慢なものを指します。

 自分の弱さを知り、自分の膨大な罪をかきわけて、神を信頼する心をこそ全力で受け止めてくださるイエス様は、「天地創造の時から」(34節)祝福されることを求めておられます。そのために今、イエス様は十字架への道行きへと向かって行かれるのです。

June 08, 2019

先週説教要旨 2019.6.9

先週説教要旨 2019年6月9日 

「空の鳥、野の花をよく見なさい」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章25~34節

 

 イエス様がくちずから教えてくださった「主の祈り」は祈ります。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。糧とは食べ物のことです。食べることは生きることに直結します。今日を生きる命を、他でもない「父よ」と呼び掛ける方にいただいている。そのことの感謝と畏れがこめられています。私たちの具体的な生活は御父によって支えられている、そのことを知る者の祈りです。私たちの信仰はこの主の祈りにおいても一致しています。

  今日開いた聖書箇所も、私たちの具体的な生活を語ります。ある聖書学者はこの箇所を「神の国の民の生活規範」と呼びます。すなわち、キリスト者がどう生きるべきか、が書かれていると。具体的な生活のなかで生まれてくる思い悩みに支配される私たちに、イエス様の命令が響きます。「思い悩むな」。そう、これは呼び掛けでも招きでもありません、命令です。しかも、6回も。「あなたがたが思い悩んだからと言って、寿命を伸ばすことができようか」思い悩むことがプラスを産み出すわけではない、むしろそれは煩いであり、病であるのです。

 そして、思い悩む私たちに、イエス様は空の鳥を、また野の花を「よく見ること」「注意して見ること」をすすめます。空の鳥、野の花、珍しいものではありません。しかし、よく見ることとその小さな日常のなかに、神のご支配がある。そこにも、またあそこにも。それを知るときに、まして私が神の支配のなかに置かれていないことがあろうか、いやないのです。そこに私たちが思い悩みから解放される道があるのです。

  三重県の伝道の歴史を調べるなかで、宣教師たちの柔和さと根気強さを知りました。なぜ、諦めずに伝道できたか。そこには神の支配とイエス様の現臨を証する真理の霊の導きがあったからに他なりません。ペンテコステに降り、教会を生み出した聖霊なる神は、昔もいまも、また将来に渡って私たちを導いてくださるのです。

June 01, 2019

先週説教要旨 2019.6.2

先週説教要旨 2019年6月2日 

「賜物の有効活用法」池田慎平牧師

マタイによる福音書第25章14~30節

 

 ある人が旅に出かけるにあたって、その僕たちを呼んで、一人には五タラントン、一人にはニタラントン、もう一人には一タラントンを預けていきました。タラントンというと、「才能」という意味の「タレント」という言葉の語源として知られます。日本の円のようにはっきりとしたお金の単位ではなく、もともと重さを示すものでした。ですから、量るものによってその価値が大きく変わるものであったようです。それでも一タラントンというのはわずかなものではありません。それを今日の箇所をよく読むと、「それぞれの力に応じて」(15節)とあります。才能そのものをタラントンと言っているわけではないようです。いずれにしても、一人ひとりにその力に応じて大きなものが与えられているのです。

 私たちは神様から大切なものを預けられています。それぞれに与えられた「賜物」があります。そこには三つの意味があります。第一に、それをいつか返さなければならないということ、第二に自分のものではなく借りているものだから、大切にしなければならないということ、そして第三にこのたとえ話によれば、それを有効に用いなければならないということです。有効に用いること、それが大切に扱うことと一つとなっています。

 そして、このたとえ話で重要なのは、賜物を他の人と比較すること、競争することが問題となっていないということです。賜物を他人に見せびらかすわけでもありません。そういうことが始まれば、健やかに子の賜物を用いることは難しいでしょう。一タラントンを土に埋めてしまった僕の罪もそこにありました。悲観の罪、臆病の罪、そして、怠惰の罪です。小さくても、ちっぽけでもそれは神様から与えられたものです。自分の考えで、だめだ、と考えるところに神様から預けられたものであることを忘れさせる誘惑があります。「主人と一緒に喜んでくれ」(21,23節)は直訳すると、「主人の喜びに入れ」となります。なぜ、主人は賜物を与えて下さったのか。一緒に喜びたいからです。

May 25, 2019

先週説教要旨 2019.5.26

先週説教要旨 2019年5月26日 

「キリストを得、キリストの内にいる」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第3章4~7節

 

 三章から始まるのは教会の中に初めの福音信仰から大きくずれていってしまった人々がいることへの警告です。彼らはキリストを信じるだけでは救われない、救われるためには割礼を受け、律法を守らなくてはならないと主張していたようです。そういう人々によって教会の信仰が危機にさらされる、その状況に対してパウロは手紙で警告します。

 「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。」(4節)とは、彼らの論調にあえて乗ってパウロ自身を説明する言葉です。「肉」を「人間的なもの」と訳す聖書もあります。彼らが人間的なことを誇るなら、私はなおさら誇ることができる、私以上に誇れるものはいない、とパウロのこれまでの功績を羅列していきます(五、六節)。ここではつまり、パウロ自身が生まれも育ちも教会の反対者が欲しがるすべてのものを持ち得ている、(彼らの言うところの)救われる条件はすべて満たしている、ということを指します。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(7節)。

 なぜ、パウロはそれまで大事だと思っていたものを「損失と見なすようになった」のでしょうか。キリストと出会ったからです。パウロはただ一言「キリストのゆえに」と語ります(7節)。それまで積み上げてきたものが無になったのではない、むしろマイナスになったのです。パウロはキリストとの出会い(使徒言行録9章)によって、それまで正しいと思ってきたことが根本的に間違っていたことに気付かされます。神に従って生きていたと思っていた人生が、実は神の意に反する罪人の人生だった。人生を揺さぶられる大きな衝撃です。しかし、キリストは私たちに徹底的に罪を知らせるためだけに出会われるのではありません。キリストによって自分の罪が赦されている、ということを知らされるのです。私たちは本当に罪赦されるお方の前でこそ、自分が罪人であることを認め、新しく生きることができるのです。

May 18, 2019

先週説教要旨 2019.5.19

先週説教要旨 2019年5月19日 

「備えよ、常に」池田慎平牧師

マタイによる福音書第25章1~13節

 

 十人のおとめたちのたとえ話です。パレスチナ地方では新婦の友人たちが、花婿を迎えるのが習わしであったようです。手には誇らしげに灯火が点っています。灯火はいわばこの祝いの席への招待状です。しかし、花婿は待てど暮らせど来ない。待ちくたびれて、皆眠ってしまった。夜中に花婿到着の合図が。片方のおとめたちが持っている灯火はいまにも消えそうですが、もう五人が持っている灯火はこうこうと明かりがついています。きちんと油の壺を用意していたからです。明かりを用意していたおとめたちは無事に婚宴の席に着きましたが、明かりの消えてしまったおとめたちは入ることができませんでした。

「賢い」と「愚かな」、どこで明暗が分かれたか。この物語はとてもシンプルです。おとめたちの容姿がよかったとか、才能があったかとか、経験があってなんらかの技能が達者だったとかそういったことは書かれてはいません。備えをしていたか、いなかったか。そこに違いがあります。かたや「もうこれで大丈夫、これで満ち足りた」。かたや「いまだならず。だから、上からのものを待つ」。後者がキリスト者の姿勢。神が来なければ完成がない。花婿が来なければ結婚式が始まらないように。

備えをしていなかったおとめたちは、備えていたおとめたちに分けてくれるように頼みます。しかし、信仰生活において分け合えぬものがあるのです。それは神様との一対一の関係であり、私の救いです。

「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)。賢いおとめも、愚かなおとめも眠ってしまったことは同じです。目をバキバキにしてずっと起きていなければならないのではありません。しかし、ある説教者は「眠りの質が違う」と言います。備えをしている者の安眠。備えをしていない者の惰眠。神に信頼して備えをしている者は、突然目覚めの時が来ても慌てることをしないのです。私たちは御言葉に聴き続け、休ませてくださる主のみ前で花婿(キリスト)が来られるのを待ち続けるのです。

May 11, 2019

先週説教要旨 2019.5.12

先週説教要旨 2019年5月12日 

「決して滅びない言葉」池田慎平牧師

マタイによる福音書第24章32~51節

 

 ここからイエス様は終わりの日を前にした者の生活についてたとえを用いながら語ります。イエス様の終わりの日についてのたとえは、次の25章に至るまで大小7つのたとえで語られています。そのなかには「タラントンのたとえ」という有名なたとえもあります。タラントンのたとえ、それもまた「終わりの日」について語られる中で登場したたとえなのです。31節までは「終わりの日」にはしるしがある、と語られます。しかし、今日からの箇所で強調されるのは終わりの日は「突然来る」ということです。迫害のなかにあって、終末を待ち望みながら生きていた初代教会が緊張感をもってこれらの言葉を聞いたのだと思います。

イエス様はたしかに「天地は滅びる」(35節)と言われます。天地という磐石な、永遠のものだ、と思っているものが滅びる。それは私たちの体もまた滅びる、ということです。体の滅び、というのは年を重ねていくごとに顕著です。イエス様もまた滅び行く肉体をもってそれをお語りになりました。滅びを知らずにお語りになったのではなく、間もなく十字架の上で死なれる体をもって滅びを語られたのです。しかし、滅びだけではありません。滅びの先にある朽ちない希望を語るのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35節)。ある牧師はここが「キリスト教のすべて」と言います。神は言葉によって新しい出来事を起こされます。教会も滅びない言葉を受けて、滅びない言葉の陰に、滅びない言葉にぶら下がって、滅ぶものでありながら滅びないものとされている喜びに生きるのです。

「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 ・・・また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ6章13~17節)。終わりを待つ日々のなかで、私たちは神の言葉によって現実を切り開いていくのです。

May 04, 2019

先週説教要旨 2019.5.5

先週説教要旨 2019年5月5日 

「キリストの警告を聴きながら」池田慎平牧師

マタイによる福音書第24章15~31節

 

 時間軸の捉え方について、私たちキリスト者は初めと終わりがある時間軸に生きていると言えます。しかし、私たちが住むこの国には別の時間軸が存在します。「輪廻」という時間軸です。それは「輪」という文字が表すように初めも終わりもなく、永遠に続いていく時間軸です。しかし、私たちはこの国において「終わり」を見つめています。それは神がお与えになる「終わり」です。

二十四章はその「終わり」について、イエス様が弟子たちにお語りになっている言葉で満たされています。弟子たちもまたその日について不安げにイエス様に訪ねるしかありません(3節)。けれどもイエス様もまたその日がいつ来るのか知らない、知っているのは父なる神お一人であると語ります(36節)。そしてイエス様は「終わり」の時のしるしとして、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」(21節)と警告をされます。それは「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」(22節)ほど厳しいものだと。「しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう!」(22節)。

苦難自体が世の終わりではありません。「その苦難の日々の後」(29節)とあるように、その後にそれまであった世界が滅び、新しい世界が立ち上がるという黙示的な文章で締めくくられます。この世界の延長に神の国があるのではなく、新しい出来事が神によって起こるのです。

 「終わり」は私たちの教会生活における点と点とを線で結びます。終わりある神の歴史の中に、自分の喜びや悲しみを置くことができます。また「終わり」に生きることは、この地上を目覚めて生きることを教えます。それがいつ来るのか、神にしかわからない。私たちがそれを予定するわけにはいかないのです。そして、世界は私たちの方から終わりに向かっているのではなく、主の方から私たちに向かってきています。マラナタ。

April 13, 2019

先週説教要旨 2019.4.14

先週説教要旨 2019年4月14日 

「忍耐について」池田慎平牧師

マタイによる福音書第24章1~14節

 この聖書箇所を読んで説教のために黙想していたときに思い出したのは、東神大で神学を学んでいたときに、歴史神学の教授が二千年にわたる教会形成の歴史を「教会バス」という名前でたとえていたことです。教会がこの世界でたどってきた歴史、というのはやみくもに走ってきた歩みではありません。目的地を目指しての旅です。教会が目指す目的地とは一体どこか。それはこの箇所でイエス様が語られた「それから、終わりが来る」(14節)、いわゆる終末の出来事です。それは全体教会の歴史のみならず、個々の教会もまた同じです。ここに「世の終わり」と訳している言葉は「完成」という意味を持っています。神が世界を完成させてくださる。それが私たちの将来への望み、希望です。そのために主イエスは来て下さるのです。

 弟子たちはおそるおそる「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(3節)と問いました。イエス様は世の終わりの前に起こる出来事を語ります。これらのおどろおどろしいことを聞いて、私たちはこれこそ世の終わりだ、と思うかもしれません。しかし、聖書が語る世の終わりはそうではないことに注意したい。「まだ、世の終わりではない」(6節)。聖書はあくまでもそれらは「前兆」に過ぎない、というのです。聖書はそのような「前兆」と「終わり」とを区別しています。前兆は終わりではないのです。「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」(8節)。これらの出来事を通して、何が生まれるのか。パウロはこのように言っています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマの信徒への手紙第5章3~5節)。だから、イエス様はこう語るのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)。聖書が語る「忍耐」、それは信じて「待ち望む」ことです。なぜ、待ち望むことができるのか。「希望はわたしたちを欺くことがない」からです。

April 06, 2019

先週説教要旨 2019.4.7

先週説教要旨 2019年4月7日 

「今の時代の者たちに」池田慎平牧師

マタイによる福音書第23章25~39節

 イエス様が十字架を前に語られた嘆きに貫かれた公の説教の締めくくりです。イエス様が指摘をされるのは、外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている現実です。キリストはそれを杯や皿の扱い、白く塗った墓に例えます。「白く塗った墓」とはは、当時の墓に触れると汚れる、という律法に由来しています。知らずに墓に触れてはいけないから、目立つように墓を白く塗ったのです。見た目には美しいですが、そのなかには死と腐敗が広がっています。それこそが律法学者やファリサイ派が抱えている現実であると厳しく批判されます。

続いて、「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している」(31節)と語られます。旧約聖書には多くの預言者が登場します。しかし、彼らは誰一人として安らかな最期を迎えませんでした。なぜ預言者たちは歓迎されるどころか、殺されてしまったのか。それは、預言者を通して語られる神の言葉を聴きたくなかったからです。そして律法学者やファリサイ派は自分たちが生きていたら、預言者を殺さなかったろうと先祖たちの罪滅ぼしをしながら、最後の預言者である洗礼者ヨハネを殺すことに加担していました。彼らもまた神の言葉に耳を塞いでいるのです。イエス様はファリサイ派や律法学者たちを越えて、エルサレム全体に向かって「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と容赦しません。時代を裁く言葉です。なぜここまで徹底的に嘆き、批判されるのか。そこには深い神の思いがあります。

キリストは預言者のごとく神の言葉を語ります。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(37節)。「何度も」!そう、神は「何度も」語りかけてくださったのです。なぜか。それはどうしても私たちを取り戻したいからです。愛がなければこれほどまで嘆くことはありません。そして、その愛の「仕上げ」(32節)としてキリストの十字架があります。

March 30, 2019

先週説教要旨 2019.3.31

先週説教要旨 2019年3月31日 

「キリストには代えられません」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第3章1~3節

 キリスト者の歩みはパウロが語るように、喜びに満ち溢れたものです。そしてその喜びに溢れたキリスト者の生活を端的に言い表したのが三節の言葉でありましょう。「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(3節)。

 喜びを語るパウロは、しかしその喜びを阻害する者があることを語ります。「注意しなさい」「気を付けなさい」「警戒しなさい」と辛らつな言葉を連ねて注意しているのは、喜びの生活から私たちをそらす誘惑についてです。「犬」「よこしまな働き手たち」「切り傷にしかすぎない割礼を持つ者たち」とは当時の教会の内外にキリスト者としての生活を脅かす者たちがいたことを現しています。特に割礼を強調する者たちは、礼拝者としてのキリスト者の生活だけではなく、キリスト者としてのしるしを求める人々であったようです。「礼拝するだけではだめだ」そういう声は、初代教会や歴史の中だけでなく、現在でも色濃く残る声です。

 しかし、パウロはそれらの誘惑に陥らないために、キリスト者として生きる者の基本線を確認します。それが「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」の三つです。「神の霊によって礼拝する」。すなわち神の思いを知りながら礼拝するということです。神の思い、それは徹底的に私たちを救い出すことへと向いています。私たちを救い出してくださる神を礼拝するとき、私たちは自分で自分を救うことができないことを認めます。「キリスト・イエスを誇りとする」ことと「肉に頼らない」ことは表裏一体です。私たちの内に誇るべきものはありませんが、イエス・キリストを誇ろことはできる。なぜなら私たちの弱さに働いて、私たちを生かしてくださる方であるからです。この方によって生きるなら、私たちは自分の肉(体、経験、関係etc)に頼っている場合ではありません。そのように何にも代えがたい、イエス・キリストこそ私たちの生きる根拠になってくださいます。

March 23, 2019

先週説教要旨 2019.3.24

先週説教要旨 2019年3月24日 

「見えない目ではなく」池田慎平牧師

マタイによる福音書第23章13~24節

 「不幸だ」という言葉が続きます。「幸い」を語ってくださった山上の説教とは真逆のような箇所です。読み飛ばしてしまいたくなる箇所でもあります。私たちのイエス様のイメージが壊されるような、辛辣に語られるイエス様です。山上の説教では、キリスト者として生きる祝福を語ってくださいました。それではここで祝福とは反対の「呪い」が語られているのでしょうか。その結論は先に置いておくとして、ここで何より受け取りたいのは、イエス様が嘆かれている。その嘆きは深い、ということです。なぜここまで嘆かれているのか。そのことを考えてみなくてはなりません。

 なぜ「不幸」なのか。「わざわい」(口語訳)なのか。ものが見えないからです。「ものの見えない」。これは具体的な視力のことを言っているのではもちろんありません。信仰の視力のことです。信仰の視力が見えなくなってきている。信仰の視力が見つめるもの、それは何か。それはもちろん神様を見つめる目です。神様を見つめる目が見えなくなる。なぜか。ここにも先週読んだ5節の言葉が効いていると思います。「そのすることは、すべて人に見せるためである」(5節)。

 そしてそれが同じように繰り返される「偽善」という言葉と重なり合ってきます。目の見えないものは偽善に走るのです。神が見えなくなった時に、私たちはもうひとつ大きな罪を犯します。それは二十三節以下に書かれていることです。当時の人々は自分の収入の十分の一を捧げました。十分の一献金の始まりです。それは薬味(スパイス)のような細かいところにも及びました。しかし、「最も重要な正義、慈悲、誠実」はないがしろにされていると指摘されます。献金はいつも「感謝と献身のしるし」として捧げます。

 「不幸だ」という言葉は原語では「ウーアイ」という響きです。痛むときに思わず出る言葉です。神様のため息のような、寂しそうな、悲しそうな響きを持った言葉です。イエス様は呪っているのではありません。神のまなざしの中に立って、新しい目で神を見つめてほしいと願っているのです。

March 16, 2019

先週説教要旨 2019.3.17

先週説教要旨 2019年3月17日 

「私たちは何処にいるか」池田慎平牧師

マタイによる福音書第23章1~12節

 ここにあるのはファリサイ派の人々の罪表です。イエス様は徹底的にその罪を糾弾なさいます。その言葉はかなり辛辣です。けれども、私たちもすぐさまイエス様の側に立って、ファリサイ派のことを悪く言うことができるのだろうか考えてみなくてはなりません。ファリサイ派という言葉は、「区別する者」「分離する者」という意味です。区別するのも分離するのも、真面目に信仰生活を送るためです。自分が罪に汚れないためです。そういうように一所懸命に生きた人々、それがファリサイ派の人々です。「モーセの座に着いている」(2節)とあるのは彼らの働きが評価されている言葉です。しかし、その真面目さのゆえに彼らは罪へと誘われてしまったのです。

 彼らが信仰生活の中で行うことをイエス様はバッサリとこう言い切られました。「そのすることは、すべて人に見せるためである」(5節)。彼らは神に見られることをこそ喜びとしていたはずです。しかし、「聖句の入った小箱を大きくしたり」(5節)、「衣服の房を長くしたりする」(五節)のは、自分がいかに敬虔であるかを人に見せようとすることであることをイエス様は見抜いておられた。そして、いつの間にかそれが彼らの救いになっていたことを。

 ファリサイ派を批判しながら、私たちもまたファリサイ派になる誘惑に置かれています。宗教改革者のマルティン・ルターは一人の修道士であった頃、神を恐れていました。それは自分の義を立てなければ、神はお救い下さらないと思っていたからです。しかし、聖書を開くにつれてその誤解は解かれていきました。義を立てられるのは神御自身であることに。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11、12節)。この言葉を完全に達成されたのはイエス様です。キリストは私たちの下にいてくださる。そして、私たちを高く引き上げてくださるのです。その関係性、その位置関係を信じるときに、初めて心を高く上げて讃美することができます。

March 09, 2019

先週説教要旨 2019.3.10

先週説教要旨 2019年3月10日 

「キリストとは誰か」池田慎平牧師

マタイによる福音書第22章41~46節

 東京大空襲から六四年、東日本大震災から八年が経ちました。荒れ果てた大地を見つめながら、どのようにして立ち上がっていったらいいかわからないなかで、私たちは今日も問われています。「キリストとは誰か」。

 イスラエルの人々もまた何度となく大国から支配され、信仰の拠り所である神殿を破壊され、自分たちの故郷を踏みにじられながら、メシア(キリスト)という言葉にただ単に「油注がれた者」(神に選ばれ王や祭司に任命された者)という意味以上の「救世主」という意味を見出し、待ち望みました。その頂点の時代にイエス様はお生まれになったのです。

 サドカイ派やファリサイ派、また律法学者から試みられ続けたイエス様は、ここでいよいよご自身の方から問われます。「キリストとは誰か」。彼らは即答します。「ダビデの子です」。イザヤ書にも預言されている(イザヤ書十一章一節)ように、エッサイの、すなわち旧約聖書最大の王ダビデを輩出した血筋から出て来ると。あの素晴らしかったダビデ王がもう一度来るのだ、という希望があったのです。

 イエス様はそれらの希望を否定はされません。しかし、ここでイエス様が詩編の言葉を引用されながら言われたのはキリストとは「それ以上」の方である、ということです。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」(43節)。ダビデが書いたと考えられている詩編の中で、ダビデが「わたしの主」と呼んでいるこの存在を教会は古くからキリスト預言と考えてきました。ダビデの子であるなら、なぜダビデは自分の子孫を主と呼ぶことがあろうか。ダビデの子としてお生まれになる方、それはダビデもまた主と呼ぶ方。すなわちダビデを越えた方であることをお話になったのです。

わかりやすいキリスト像にとどまっている私たちにキリストであられるイエス様ご自身が問われます。キリストとは誰か。それは私のためにその命まで投げ捨ててくださった、イエス・キリストであります。

March 02, 2019

先週説教要旨 2019.3.3

先週説教要旨  2019年3月3日 

「愛を土台とした掟」池田慎平牧師

マタイによる福音書第22章34~40節

 

 律法の専門家がイエス様に問いました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(36節)。当時の律法理解では、守るべき掟は613にものぼり、その優先順位はいつも議論されていたのです。イエス様はまず『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記六章五節)の言葉を引用されます。これは「聞け、イスラエル」という呼びかけから始まる律法の中の基礎中の基礎となる言葉でした。さらにイエス様は同じように重要な掟として『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記一九章一八節)を引用されます。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている(四〇節)、と。「律法と預言者」とはいわば旧約聖書の総称です。それがこの二つの掟に基づいている。かかっている。全体重がここにかかっているのです。この二つがなければそれらはすべて落ちて壊れてしまうのです。

イエス様はそのように大胆に、旧約聖書を愛の掟に要約されました。

 さあ、私たちは愛することができるでしょうか。愛することは掟。しかし、私たちがいつも身に覚えることは「愛の破れ」「愛の限界」ではないでしょうか。この掟の前に立たされた時、いったい誰がそれを可能であるのか。神を愛することなく、隣人を愛してしまうときに。うまく自分を愛することができないと嘆きながら、他者への愛もまた偽りなのかと困惑しながら。冷たい人間だと、破れのなかに落ち込んでしまうのではないでしょうか。

 主イエスの弟子であるぺトロもまた主への愛に破れ、復活の主からの「私を愛するか」との問いにまっすぐに答えることはできなかった人です(ヨハネ21章15節以下)。私たちの愛には限界がある。しかし、私たちの愛の源は、主イエスにあります。この愛の掟をまっとうされたのはイエス・キリストただお一人です。キリストが「私を愛するか」と私たちの愛をも目覚めさせてくださいます。愛の目覚めを待ってくださる(雅歌3章5節)神様に信頼して、真の愛に生きたいと願います。

February 23, 2019

先週説教要旨 2019.2.24

先週説教要旨 2019年2月24日 

「自分を頼みとしない信仰」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第3章1~3節

 

 今日は1~3節までを聖書箇所として指定しましたが、説教準備をするなかで3節の短い御言葉のなかに、本当に豊かなものを聴き取ったので予定を少し変更して1節に集中して語りたいと思います。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」(1節)。「では」とあるのは、「最後に」(口語訳)と訳されるように手紙の区切りを指す言葉です。けれど、フィリピに書き送った手紙はまだ終わりません。ここから新しい手紙が始まるのか、それともパウロがまだ語り足りないと思ったのか、とにかくその区切りのところで、「同じことをもう一度書きますが」と断りながらこれまで繰り返し語った「喜び」について語ります。

 パウロはしつこいくらいに「喜びなさい」と語ります。喜べるような状況にはなかったのです。パウロも、またフィリピの教会も。かたや福音を語ったことによって捕らえられ、牢獄にいる。かたや愛すべき教師を失い、分裂させようとする勢力が起こっている教会です。しかし、ここでパウロが語る「喜び」が、ただ嬉しいとか悲しいとかいった感情をあらわしているのではないということを知らなければなりません。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一第5章16~18節)と言います。もし自分の感情を頼みにするならば、それは大変な重荷となる言葉ではないでしょうか。次第に緊張の糸は切れそうに、笑顔はひきつった顔になっていくのではないでしょうか。

 読み飛ばしてはいけないのは、「主において」(1節)という言葉です。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサ一第5章18節)。「主において」ということは、主なる神様ご自身が、私たちの喜びの源泉となってくださるということです。私たちの喜びのためなら、どんなことでもしてくださる主なる神様。この方が源泉となってくださる限り、私たちの喜びは決して尽きることはないのです。

February 16, 2019

先週説教要旨 2019.2.17

先週説教要旨 2019年2月17日 

「生きている者の神」池田慎平牧師

マタイによる福音書第22章23~33節

 

 ファリサイ派の次は、サドカイ派の人々がイエス様のところへとやってきます。彼らはファリサイ派と同じく当時の宗教指導者の一派でしたが、ファリサイ派と対立するグループでした。使徒言行録第23章にもあるように、「復活」を巡る論争もあったのです。ファリサイ派は復活を信じていましたが、現実的・合理的・世俗的なサドカイ派は復活を信じなかったのです。理性や理屈で考えて、ありえないことは信じない。それは私たちの内にもある思いかもしれません。「復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」(28節)。

 「復活」ということを軽んじながら、復活が起こったらこんな不都合が生じる、どうするのだ、とサドカイ派はイエス様に問います。そこにはファリサイ派もサドカイ派も陥っていた「復活」についての誤解がありました。当時のユダヤ教では、「復活」はいまある生がそのまま続くと思われていたのです。自分もそのまま、家族もそのまま、罪もそのままです。それはよく考えてみると恐ろしいことです。罪の自分が終わりのない延長試合を強いられるようなものです。

 しかし、イエス様は彼らの誤解を鋭く突いて言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(29節)。彼らは当時に宗教指導者です。聖書のことは誰よりもよく知っていたはずです。しかし、「思い違い」をしていた。思い違いをしながら聖書を読む時、私たちはこの私に臨む神の力を見誤ることになります。

「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(三〇節)。「天使」は、罪のない天的な新しい姿を現します。復活の時、私たちは罪から解放されて、新しい存在として、新しい関係性に生きる。だから、地上の婚姻関係には縛られないのです。新しく出会い直すことができるのです。復活の時、それは希望の時です。罪ある自分が、この世界がそのまま永続していくのではないのです。自分も世界も新しくしてくださる。その神の力を知らないままでいいはずはありません。

February 09, 2019

先週説教要旨 2019.2.10

先週説教要旨 2019年2月10日 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」池田慎平牧師

マタイによる福音書第22章15~22節

 

 イエス様と敵対していく当時の宗教指導者たちは、神殿でイエス様に言い負かされ、もう我慢のならない状態でした。彼らの殺意は色濃いものになっていきました。今度はファリサイ派がイエス様に対して論争を仕掛けます。ファリサイ派の人々はまず相談をします。「どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて」(十五節)イエス様をとらえようか。言葉の罠にかけようと計画したのです。しかも、彼ら自身がイエス様を訪ねるのではなく、弟子たちを向かわせます。さらに弟子たちだけでなく、ヘロデ派の人々も共に向かわせる。本来であれば政治的に敵対していたグループが、イエス様を罠にかける一点で一致しているのです。彼らはイエス様に、皇帝に税金を納めることについて二者択一を迫ります。適っていると言えば、ファリサイ派やユダヤ人は黙っていません。ローマ皇帝という自分を神格化した皇帝を認めることになります。適っていないと言えばヘロデ派が黙っていないでしょう。

 しかし、イエス様はあれかこれか、というのではなく、それらを乗り越える道をお示しになります。イエス様は「税金に納めるお金を見せなさい」とデナリオン銀貨を見つめます。デナリオン銀貨には当時のローマ皇帝の名前と肖像が刻まれています。それを示しながら、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。それはどういうことでしょうか。それは、この世を生き抜いていくためには信仰者としての面と生活者の面とを使い分けなさいと言うのでも、神を信じていればこの世の生活は関係ない、という生活を提案するのでもありません。イエス様の言葉は「神のものは神に返しなさい」というところに重きが置かれています。この世界に、神のものでないものが果たしてあるでしょうか。私たちには作り手である神の名前と肖像(似姿)が刻まれているのです。皇帝が認めるか認めないかはともかく、皇帝も神のもの。「皇帝のものは皇帝に」という言葉は、「神のものは神に」という言葉の中に包まれているのです。この世界はすべて、自分のものではない。そのことを認めるところに新しい道があるのです。

January 26, 2019

先週説教要旨 2019.1.27

先週説教要旨 2019年1月27日 

「兄弟、協力者、戦友」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第2章25~3章1節

 

 牢獄に投獄されているパウロの手紙には、共に伝道旅行をしたテモテとエパフロディトの名が記されています。本日はエパフロディトについて読みたいと思います。エパフロディトという人は、フィリピの教会の指導者の一人であって、教会を代表してパウロのもとに必要な差し入れを持って来た人のようです(4章18節)。しかし、エパフロディトは教会の人々の期待を一身に背負ってパウロ先生のもとに来たはずが、どうやらそこでひん死の重病にかかってしまったようでした(二七節)。もしかしたらパウロ先生の役に立つどころか、足手まといになってしまったかもしれません。

 しかし、そんなエパフロディトのことをパウロは、「兄弟、協力者、戦友」と呼びます。同じ父なる神の家族であり、教会に奉仕し、同じ福音宣教の戦いを戦っている友であると。それは彼が「しきりにあなたがた一同と会いたがって」(26節)いるからです。ただの郷愁を表す言葉ではありません。パウロがフィリピの教会のことを思う心と同じ心で教会のことを思っているのです(1章8節)。それはすなわち、キリスト・イエスの愛の心で教会を愛しているのです。それゆえにパウロは病み上がりのエパフロディトをフィリピの教会へ大急ぎで返そうとします。役に立たないから返品するように帰すのではありません。エパフロディトをフィリピの教会へ私の同労者として「派遣」するのです。そして、彼は神の憐れみを受けた人です(27節)。神の憐れみを知っている人、それはどんな能力を持っているものよりも教会にとって必要な人であることをパウロは確信していたのです。

 ある牧師はテモテとエパフロディトについて書かれているこの箇所について、「喜びの応用問題」と言っています。テモテとエパフロディトのことは、パウロの「喜びなさい」という言葉に挟まれて書かれています(2章18節、3章1節)。これらの出来事は、パウロがこの手紙の中で繰り返す「喜び」と切り離されているわけではなく、むしろ喜びに生きる日常が描かれているのです。主にある喜びによって現実を見る視点がここにはあるのです。

January 19, 2019

先週説教要旨 2019.1.20

先週説教要旨 2019年1月20日 

「不思議な教会の親石」池田慎平牧師

マタイによる福音書第21章33~46節

 

 「ぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」(33節)。とても丁寧に語られるこの描写は、創世記で語られるこの世界を整えられる神の姿にも似ています。この世界を農夫たちに任せて、主人は旅に出かけます。主人は戻ってきます。この世界には収穫の時があるのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(第3章2節)。収穫を受け取るために、主人は僕を送ります。この僕とは「預言者」のことだと言われています。最後の預言者・洗礼者ヨハネもまたこのたとえに語られるように、農夫たちによってなぶり殺しにされました。最後に送られたのは、ぶどう園の主人の子です。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(37節)。しかし、農夫たちは主人が送ったその子までも、農園を自分たちの農園とするために殺しました。そのように、この世界は主人に背いて歩んできたのです。

 農夫たちは追い出されてしかるべきです。祭司長や民の長老たちも自分たちでそう答えました。しかし、イエス様はその通りだ、とは言われません。

ここで話はおしまいでもよかったのです。イエス様はここで詩編の言葉を引用されます(詩編118編)。イエス様はここで関係のない話を突然し始めたわけではありません。ぶどう園の話と石の話で共通しているのは、どちらも農夫や家造りらによって大事にされなかった、ないがしろにされた息子と石があります。話はそこで結びついているのです。神様はないがしろにされたところから救いを始められます。そして、お始めになるだけでなく、救いの完成がこの隅の親石です。親石、というのは建物の基礎として考えられてきましたが、最近では屋根のアーチになっている部分を真ん中で支える要石という理解があります。この石がなければバランスを失って総崩れになってしまうのです。エルサレムはこの石に打ち砕かれて、粉みじんにされる。それまでの概念はことごとく破壊されて、新しく主であるイエス様を受け入れるためです。裁き、躓きは、救いへと招かれる道です。教会というのは、この隅の親石に打ち砕かれた者たちの群れです。

January 12, 2019

先週説教要旨 2019.1.13

先週説教要旨 2019年1月13日 

「振り返れ、前はこっちだ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第21章28~32節

 

 今日のたとえ話は、読めばすぐにわかる物語であろうと思います。二人の息子のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。イエス様の問いかけに、イエス様とその権威について論じ合っていた祭司長たちや民の長老たちもすぐに答えることができました。「兄の方です」(31節)。

 「今日、ぶどう園に行って働きなさい」という父の言葉に、兄は最初「いやです」と答えました。しかし、後で考え直して出かけていきました。弟は「承知しました」と答えたにもかかわらず、出かけませんでした。どちらも完璧ではありません。本来なら、父の望みどおりとは父の言葉を受けてすぐにでもぶどう園に向かうことだからです。兄の方は後で考え直して行った分、いくらかましだったにすぎません。しかし、神はこの「考え直す」ことを深く受け止めてくださいます。

 「はっきり言っておく。徴税人と娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31,32節)。

 私たちには「考え直す」機会が与えられているのです。私たちが考え直すのを神はずっと待っていてくださるのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。洗礼者ヨハネはそのようにして、自分の生涯をかけてぶどう園に戻る道を指差し続けたガイドとしての役割を果たしました。そして、イエス様は御自身が道となって(ヨハネによる福音書第14章6節)私たちが忘れてしまったぶどう園(神の国)へ導いてくださいました。私たちは道を忘れて、あべこべの方を向いているのですが、御言葉は常に私たちを義の道へと振り返らせてくださるのです。

ある牧師はこの聖書箇所を、「考え直す人生」という題で説教しました。私たちの人生は一回考え直すだけでなく、人生を通して御言葉に聴き、考え直していく人生です。

January 05, 2019

先週説教要旨 2019.1.6

先週説教要旨 2019年1月6日 

「敗者、だけど勝者」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第4章10~14節

 

 年が明ける前から、ある企業の重役が自身の報酬を少なく見積もっていた容疑で拘留されていることがニュースになっています。私には想像もできない額です。人間はそれでも満足することができないのでしょうか。人間の欲望がとどまることを知らないということもあるでしょう。そして、お金や栄誉というものがいくら得られても、私たちを満足させることがない「この水を飲む者はまた渇く」ものであるということもあるでしょう。

 パウロはこの時、牢に捕らわれている状況でした。これから自分がどうなってしまうのかわからない状態です。そのパウロのところにエパフロディトという仲間を通してフィリピの教会から贈り物が届いたというのが今日の出来事の背景にあります。愛する教会からの久し振りの連絡に、パウロは喜んでいます。しかし、直接にフィリピの信徒たちに感謝を伝えているようではありません。パウロが感謝しているのはむしろ、フィリピの人々が教会として成長していることを主において喜んでいます(十節)。

「物欲しさにこう言っているのではありません」(11節)と言っているように、信徒たちの贈り物が来たから「渡りに舟」と喜んでいるわけでも、それがなければ生きていけないというのでもないのです。なぜならパウロは、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」(11節)からです。これは強がりを言っているわけではありません。日本人はこういう美徳が大好物です。しかし、パウロは貧しさを正義としているわけでもないのです(12節)。そして、それは厳しい修行の末に、何かの境地に至ったというわけでもないのです。「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(12節)。パウロが到達したのでも会得したのでもなくて、この知恵を神様から与えられたのだ、と。それは、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能」という知恵です。キリストを知った者において、敗者、だけど勝者、愚者、だけど知者、貧者、だけど富者、弱者、だけど強者という不思議な、恵みのパラドックスが起こるのです。

December 29, 2018

先週説教要旨 2018.12.30

先週説教要旨 2018年12月30日 

「主に結ばれている交わり」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第2章19~30節

 

 今日読んだ聖書の言葉は、これまで読んできたフィリピの信徒への手紙のなかでも手紙らしい文章であると言えるかもしれません。牢獄に捕らわれているパウロから、フィリピの教会へこれからの計画について送られています。ある神学者は「この箇所には神学的な要素は何もない」と言いきる人もあるようです。しかし、ここはこれまで教会について熱く語ってきたパウロが、冷静になってまったく違うことを話しているかというとそうではないと思います。むしろこれまで語ってきた事柄を実際に生きているパウロの姿を知ることのできる部分であるのです。そこには、日常をキリストと共に生きるキリスト者の姿があります。

「主イエスによって希望しています」(19節)、「主によって確信しています」(24節)とパウロは語ります。これらの言葉は、「キリストのなかで」と訳すことのできる言葉です。パウロの計画を語りながら、しかしそれらはすべて「キリストの中で」起こる出来事として語ります。それがどんなに小さなことでも。パウロが生きているのは、キリストのなかであるのです。私たちも日常のうちにキリストが生きているだろうか、キリストは日曜日にだけ生きて働いておられるのか、問われています。

 テモテは、パウロの手紙にたびたび登場する人物です。フィリピの信徒への手紙の共同差出人としても名前が記されています(1章1節)。彼が用いられていることの理由は、彼が有能だったから、何かしら長けた能力があったから、お金持ちだったから、見た目もよく人付き合いがうまかったからではありません。もちろんそういう資質も兼ね揃えていたかもしれませんが、パウロはそういうことを申しません。彼が用いられたのは、「共に福音に仕え」(22節)る者であり、「キリストを追い求める者」(21節)だったことによります。教会の結び付きもそこに尽きます。共に福音に仕え、キリストの内に生きている共同体です。間もなく新しい年を迎えます。新しい年も、私たちはキリストのうちに生き続けたいと願います。

December 22, 2018

先週説教要旨 2018.12.23

先週説教要旨 2018年12月23日 

「神の権威が現れるところ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第21章18~27節

 

 今日読んだ箇所は、受難週によく読まれる箇所です。マタイによる福音書を読み続けてきて、クリスマスのこの時もそれを続けています。憤っているイエス様を描いています。クリスマスらしい個所ではないかもしれません。しかし、今日この日に子の箇所が与えられたことを考えてみたいのです。

 イエス様は朝早く、ベタニアからエルサレムにお帰りになりました。「空腹を覚えられた」とあります。これはただお腹がぺコペコだったというのではありません。いちじくの木に実がなっていないことも含めて、これは象徴的な意味を持つ出来事です。イエス様が地上で活動されたときが間もなく終わろうとしているのです。しかし、その時になってもエルサレムの人々の態度は変わらない。「ホサナ」と迎えても、「十字架につけろ」という声に変わっていく。それはあたかも、葉を茂らせながら何の実も与えないいちじくの木のようでした。イエス様の飢えは、頂点に達します。

エルサレムでイエス様をメシアと受け入れなかったこと、クリスマスの出来事の時、生まれてくるイエス様にどこにも居場所がなく、人々がその誕生を喜ぶどころか、不安になった、ということはよく似ていると思います。葉ばかりが繁り、実のないところへとイエス様はお生まれになってくださったのです。

人々は救世主を待望していました。しかし、イエスを否んだ。自分たちが求めていた救世主ではなかったからです。祈りにおいても、そのようなことが起こるのではないでしょうか。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。神様は求めていた救い主を与えてくださったのに、誰もそれを見ようとはしなかった。本当に救いを必要としていた者だけが、馬小屋の中に見つけることができたのです。

神は世界の片隅から世界を変えてくださる、私たちの現実を変えてくださる。ひっそりと、しかし確かに。不可能だと思うことを、荒唐無稽だと思うことを、可能にし、成し遂げてくださるのです。主に信頼しましょう。

December 15, 2018

先週説教要旨 2018.12.16

先週説教要旨 2018年12月16日 

「幼子の口に讃美を」池田慎平牧師

マタイによる福音書第21章12~17節

 

 牧師には様々な誘惑がありますが、特に説教について人が気に入る言葉を語りたくなる誘惑とはいつも闘わねばなりません。人は「いい話」を聞きたくなります。しかし、教会で語られる言葉はそのニーズに応えるものではありません。むしろ、自分でも気付かなかった本当に必要であるのは何か、そのことが聖書を開いて語られるのが説教であり、礼拝や祈りでなされていることであろうと思います。

 今日読んだ聖書箇所は、四福音書すべてが記しているイエス様のお姿です。憤られ、大暴れされるイエス様です。エルサレムに入城されたイエス様は、まっすぐに神殿に来られました。神殿には異邦人たちもそこに入ることのできる庭がありました。その庭で商売をしている者たちを、イエス様は「皆追い出し」(12節)たのです。  異邦人の庭、それは異邦人たちが礼拝する場所でした。礼拝する場所での商売にイエス様は憤られたのです。

 両替人や鳩は、ユダヤ人の礼拝に必要なものでした。しかし、それらの必要のために礼拝する場所を、イエス様曰く「強盗の巣」(12節)にしていいわけではありません。泥棒ではなく強盗と言われます。他人からものを奪うためには傷つけることもいとわない。私たちの欲望は、礼拝や祈りのなかにも入り込んできます。空っぽになった庭に入ってきたのは、目の見えない人や足の不自由な人たちです。彼らは当時神殿に入ることを許されなかった人たちです。イエス様は彼らを礼拝することができるようにしてあげたのです。境内には子どもたちもいて、「ホサナ、ホサナ」とイエス様を讚美しています。その声を聞いて祭司長や律法学者は喜ぶどころか、腹を立てたのです。

イエス様が取り戻される礼拝、そこで捧げられるのは、人間の欲望が支配する礼拝ではなく、主が支配してくださる礼拝です。私たちが気持ちよくなるための讚美ではなく、神が美しくなるための讚美です。次週はクリスマスです。私たちの捧げる礼拝をキリストがご支配くださいますように。

December 08, 2018

先週説教要旨 2018.12.9

先週説教要旨 2018年12月9日 

「救い主はちいろばに乗って」池田慎平牧師

マタイによる福音書第21章1~11節

 

 イエス様がいよいよエルサレムに入城される出来事です。これは四福音書すべてに記されている、イエス様の歩みにおいて重要な出来事です。イエス様はエルサレムにお入りになる前に、弟子二人を遣わして、ろばを引いてくるように命じました。なぜわざわざ「ろば」に乗ってエルサレムに入城されたのか。それは、預言の言葉が実現するためでした。ここにはゼカリヤ書第9章9節の言葉が引用されています。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」(5節)

 イエス様は王として、エルサレムに入城されたのです。しかも、柔和な王として。柔和とは、「謙遜」という意味でもあります。その謙遜は、イエス様の十字架においてあらわされます。この王は自分が生きるためなら配下の者をいくらでも捨て駒にされる王ではなく、すべての者が救われるためにご自分が死なれる王であるのです。その柔和な王は、力の象徴である軍馬ではなく、荷を負うろばに乗ってこられたのです。

 イエス様は「ホサナ(どうか救ってください)」と叫ぶその口が、今度は「十字架につけろ」という言葉へと変わっていくことを知っておられました。自分たちの希望や願い、期待を神様にぶつけて、それがかなわなければそんな神様は神ではない。と捨ててしまう私たちの罪をしっておられるのです。誰もが王になりたい、そういう欲望を持っています。王という具体的な地位ではなくとも、誰かを自分の意のままに動かしてみたい、自分の願望やわがままを通したい。そのとき、私たちがいかに傲慢な王であるか。そういう思いに満たされたときに、私たちはろばでエルサレムに入城された柔和な王のことを思い出したいのです。

 十七節にはそっと都を出て行かれるイエス様のお姿が描かれています。王として迎え入れられながら、居場所のないお姿はクリスマスの出来事を思い出させます。この方は、居場所がない私たちのための王なのです。

December 01, 2018

先週説教要旨 2018.12.2

先週説教要旨 2018年12月2日 

「恵みに向かって目を開く」池田慎平牧師

マタイによる福音書第20章29~34節

 

  今日の聖書箇所は、イエス様がエルサレムへといよいよ入城されようとする、その直前に置かれた出来事です。イエス様が覚悟を持って歩みを進めようとされる時、道端に座っていた二人の目の見えない人と出会うのです。彼らはイエス様の一行がお通りと聞くと、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」と叫び始めました。イエス様に従っていた群衆たちは彼らを黙らせようとしますが、イエス様ご自身はこの目が見えない二人の目を開いてあげたのでした。

 実はこの出来事は、同じような出来事がマタイによる福音書第九章二七節以下にもありました。この二つに共通しているのは、どちらも二人の目が見えない人をイエス様が癒されたこと、そしてどちらもイエス様が覚悟を持って歩み出そうとされている直前に置かれているということです。これには福音書を書いたマタイの意図があると思います。二人の盲人はイエス様のことを「ダビデの子よ」と呼びました。これはマタイによる福音書にはいくつか登場するイエス様の呼び名ですが、他の福音書には目の見えない二人の口を通してだけ叫ばれる名前です。目が見えない者によって、イエス様の本当のお姿が明らかにされているのです。しかし、それは多くの者には隠されたままでした。イエス様はダビデの子として、まことの王として覚悟を持って歩まれました。しかし、イエス様に従う群衆たちは、それを見ることができませんでした。目の見えない二人は、それを見出したのです。憐れみを乞う祈りの中で。

 目が見えるようになったら、彼らにはたくさんしたいことがあったでしょう。しかし、彼らは「イエスに従った」のです。彼らの生きる目的がキリストになったのです。私たちもこの待降節、「わたしたちを憐れんでください」と信仰の目が開かれてキリストをまっすぐに見つめることができるように祈りたいと思います。

November 24, 2018

先週説教要旨 2018.11.25

先週説教要旨 2018年11月25日 

「命の言葉を保つ」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第2章12~18節

 

  今日は教会の暦でいうと、終末主日と呼ばれる主の日です。次週からいよいよ待降節(アドヴェント)が始まります。教会の一年は、待降節を含むクリスマスから始まります。ですから終末主日とは、教会の一年の終わりを表すと共に、神の国の完成する終わりの日を覚える日でもあるのです。今日、この日に開く聖書箇所はフィリピの信徒への手紙第二章十二~十八節です。

 この御言葉は、「だから、わたしの愛する人たち」で始まります。前の文章を受けて、使徒パウロが手紙の読み手に向き直るようにして語りかけています。前の文章では自分を無にして、十字架の死に至るまでのイエス・キリストの従順について語られていました。ここで言われる従順とはもちろん神への従順です。神様が語りかけてくださる声にいつも「はい」と答えて歩むときに、私たちは神に対しても、人に対しても従順になることができると思います。「恐れおののきつつ」、つまり神を神としながら歩むということです。

十五節には「世にあって星のように輝き」と美しい言葉が記されています。キリスト者は夜の闇のような世にあっても、星のように輝いているというのです。星の輝き、それは自分自身の光ではありません。恒星という、燃えている星の光を反射しているのです。キリスト者もまた、神の光を反射して生きていると言えるでしょう。十六節には「命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。これは口語訳聖書では「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」とあります。さらに別の訳では、「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(新改訳)。世にあって星のように輝く、それは命の言葉、すなわち教会で語られる御言葉に生きるということです。宗教改革者のカルヴァンはここをこのように訳しています。「そして彼らの間であなたがたは生命の言葉を前にかかげて松明のようにこの世に輝きなさい」。神様から与えられる命の言葉、これを枡の下に置くことはできません。なぜならこの御言葉こそ、終わりの日まですべての人がこの世を歩み抜くための光だからです。

November 17, 2018

先週説教要旨 2018.11.18

先週説教要旨 2018年11月18日 

「自由と重力」池田慎平牧師

マタイによる福音書第20章17~28節

 

  イエス様はその弟子たちに三度、ご自分がエルサレムで殺され、三日目に復活することをお語りになりました。三度目にお語りになったとき、イエス様はより詳細にその時のことを語ります。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(十八、十九節)。ここで初めて具体的に「十字架」という言葉が出て来るのです。またそれだけでなく、「引き渡される」苦しみ、死刑宣告の苦しみ、侮辱される苦しみ、鞭打たれる苦しみ、十字架の苦しみと精神的にも肉体的にも苦しみを負うことが予告されています。イエス様は神の子であるから、このような苦しみは軽やかに乗り越えられるものだったでしょうか。そうではありません。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ二十六章三十八節)。十字架を目の前にしたゲツセマネという所での言葉です。イエス様は弟子たちと共に旅をされながら、まさにその重い心を持ちながら旅をされていたのだと思います。しかし、イエス様はエルサレムへと歩を進めます。なぜなら、その予告の最後は「復活する」ことで締めくくられ、そしてイエス様は御自分が歩まれる道がなお父の御手のなかにあることを信じながら進まれたからです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(二十六章三十九節)

 イエス様の歩みは、人間としてお生まれになった神の子として軽い足取りではなかったでしょう。しかし、その心はいつも神に開かれていたのです。

 運命をキリスト教は語りません。運命と神の御心は似て非なるものです。私たちは「運命」という何者かわからない、そこに何があるかわからないものに頼るのではありません。「父よ」と呼びかけることのできる神の御手に、私たちの人生はあります。ヤコブとヨハネもまた、この神の御手の中で自分たちに与えられた杯を飲み干していったのでした。

November 10, 2018

先週説教要旨 2018.11.11

先週説教要旨 2018年11月11日 子どもと大人の合同礼拝

「神様の気前良さ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第20章1~16節

 

  「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)。

 今日の聖書箇所は、イエスさまの語られたたとえ話のなかでも有名なものです。ここで語られるのは、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」というイエスさまの謎のような言葉の注解です。先に来た者も、後に来た者も同じ一デナリオンをいただいて帰る。順番は前後しますが、皆同じ恵みをいただいて帰るのです。ぶどう園の主人は、まだ夜が明けきらない夜明け前から広場に行って労働者を雇いました。そして九時ごろにも行って、さらには十二時ごろと三時にも行って、自分のぶどう園へと人々を連れて行ったのです。そして、もう日も暮れかけた五時ごろにも広場へ行きました。そこにはその時間まで誰も雇ってはくれなかった人々が立っていました。彼らもまたぶどう園へと送られました。

 この最後の者は「誰も雇ってくれないのです」と主人に言いました。自分の主人が誰かわからず、右往左往していた人々です。しかし、この彼らをも見つけてくださって、自分の畑に招いてくださった。彼らの主人になってくださった。これは天の国の話です(一節)。主人は神様のことです。天の国は夜明けに、朝九時に、十二時ごろと三時ごろに、そしてもう日も暮れかけた五時ごろに雇ったすべての人を招いてもまだ余るほどに広いのであります。これは希望であると思う。

 ですが、私たちはこのたとえ話を読むと、なぜか自分を最後に来た者ではなく、最初に雇われた者として読んでしまうのではないか。12節の彼らの不平の言葉の方がむしろよくわかるのではないかと思います。イエス様は主人の口を通して、「わたしの気前のよさをねたむのか」と言わせています。「ねたみ」は私たちの目をふさいでしまいます。私がどこにいるのか、私の主人は誰であるのか、主人が一体どんな方であるのか、この主人からいったいどれだけかけがえのない者をいただいているのか。ねたみを捨てて、神様の気前のよさを喜ぶ者として、気前のよい神のもとに帰りましょう。

November 03, 2018

先週説教要旨 2018.11.4

先週説教要旨 2018年11月4日 召天者記念聖餐礼拝

「神は何でもできる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第19章23~30節

 

  金持ちの青年は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(二十一節)と招きを受けたにもかかわらず、イエス様に従うことができませんでした。イエス様の言葉に腹を立てたのでも、笑い飛ばしたのでもなく、悲しみながら立ち去ったのでした。捨てることができなかったのです。自らがしがみついているものを手放すことができなかったばかりにイエス様に従うことができない悲しみ。それはこの青年だけの悲しみではありません。私たちにもしばしば起こる悲しみです。

 イエス様は弟子たちだけに言われました。「金持ちが天の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(二十四節)。人間が救いにあずかることの難しさが強調されています。弟子たちが驚くのも無理はありません。しかし、イエス様は「彼らを見つめて」こう続けるのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(二十六節)。救いは人間の可能性から起こるのではなく、神の可能性から与えられるものであると。

ペトロは自分たちが何もかも捨ててイエス様に従ったことを申し出ました。イエス様はそのペトロの言葉を拒みませんでした。それどころか、信仰の報いとして百倍の報いを受けることを約束してくださいました。

今日の聖書箇所のもうひとつの主題は、「捨てる」という言葉でありましょう。「捨てる」ということと「イエス様に従うこと」(信仰)は切っても切り離せないのです。イエス様が挙げられたのは、どれも捨てることができないものです(家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑)。しかし、信仰の出来事における「捨てる」ということはどういうことか。どことも知れない無限の暗闇に、私が大事にしているものを捨てるというのではありません。自分の手から、神様の御手に捨てるのです。私たちの救いのためなら何でもおできになる神様の御手に。この方の全能は、十字架にあらわされています。私たちの救いのために神は御自分の愛するみ子を死に渡してくださったのです。

October 27, 2018

先週説教要旨 2018.10.28

先週説教要旨 2018年10月28日

「世にあって星のように輝く」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第2章12~18節

 

 使徒パウロは「世にあって星のように輝く」(15節)と呼びます。これは誰のことを言っているのでしょうか。パウロはこれらの言葉を「わたしの愛する人たち」(12節)へと送っています。それはもちろんフィリピの教会の人々であり、神の愛に結ばれたキリスト者である私たちでもあるでしょう。しかし、キリスト者が持つ輝きとは一体どのような輝きでしょうか。

 パウロはキリスト者が「とがめられるところのない清い者」となり、「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として」(15節)輝くことを語ります。しかし、これらの言葉は私たちの現実とはかけ離れているように感じるかもしれません。パウロはさらに「従順」という言葉を受けてこれらの言葉を語ります(12節)。これらの従順は第二章の初めに語られた「キリストの従順」に基礎を置いています。そして「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(十二節)という言葉が鍵です。「恐れおののきつつ」という言葉は、びくびくするという意味です。しかし、それは自分の救いが与えられるか与えられないか、という恐れではありません。救いは与えられるのです。それでは何を恐れるのか。パウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(第二コリント第4章7節)と言います。この素晴らしい救いを受け取るには、私自身ちっぽけすぎることを恐れるのです。そして、自分が神ではない(自ら救いを作り出すことはできない)ということを知ることです。しかし、そのような者に神は惜しみなく救いを与えてくださるのです。私たちはそこでこそ本当の謙遜を知り、真の救いに従順になることができるのです。

今朝は説教の前に「光の子になるため」という讃美歌21に収録されている讃美歌を歌いました。神様の子になるため、光の子になるため、いったいどんな条件が歌われるのか。この讃美歌はしかし、ただ一言「従(つ)いて行きます」とだけ歌うのです。私たちを輝かせるのは、私たちの光源は、私たちの内にいまもなお働いてくださる神の恵みの光に他ならないのです。

October 20, 2018

先週説教要旨 2018.10.21

先週説教要旨 2018年10月21日

「永遠の命を得るために」池田慎平牧師

マタイによる福音書第19章13~22節

 

 「富める若者」として、聖書のなかでもよく知られる物語です。イエス様と金持ちの青年とが出会う出来事です。青年はとても真面目な人であったようです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」という言葉からもわかります。イエス様が口にされた掟も、子どもの頃から当たり前のこととして守ってきたようです。しかし、何かが足りないと思ったのです。そしてイエス様なら、自分に足りない新しいものを提供してくださるとやってきたのです。

 しかし、イエス様のお答えは新しいことではありませんでした。青年は「悲しみながら立ち去」りました。イエス様は青年に、「もし完全になりたいのなら」と言われました。この言葉は他の福音書にはない言葉です。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい…それから、わたしに従いなさい」と。このことができれば永遠の命をいただけるお墨付きを得るマニュアルが発表されたのかと言えば、そうではないでしょう。ここで用いられている「完全」という言葉は、福音書に2回しか登場しません。もう一ヶ所は「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(5章48節)です。誤解されやすい言葉です。しかし、聖書は私たちに頑張って神様のようになれと言うのではありません。聖書のいう「完全」とは、私の全生活が神様のほうに向いているか。弱い自分も、罪のなかにある自分も、神の御手のなかにあることを知っているかということです。この青年の場合は、その財産が神様に一途であることを阻害していたのかもしれません。

 この聖書の語る「完全」に生きる姿として、聖書は子どもたちに目を向けています。「天国はこのような者たちのものである」(14節)とイエス様の約束がなされています。父なる神に全幅の信頼を置いていくところに、イエス様に従い永遠の命に至る道があります。

October 13, 2018

先週説教要旨 2018.10.14

先週説教要旨 2018年10月14日

「共に生きる祝福」池田慎平牧師

マタイによる福音書第19章1~12節

 

 今日から読み始める第19章から、イエス様はいよいよガリラヤを去ってエルサレムへの旅を始められます。私たちは今間もなくクリスマスの足音が聞こえる季節を過ごしていますが、マタイによる福音書のなかではガリラヤを去るということは十字架へのカウントダウンが始まっているのです。イエス様はどのような思いでその時をお過ごしになっていたのでしょうか。

ファリサイ派の人々は、イエス様を試そうとして離縁について尋ねました。当時、離縁を巡っては不品行だけが離縁の唯一の条件となるというグループと、ほんのささいなことでも妻が夫の気に入らないことをすれば離縁できるというグループなどと議論が分かれていたようです。ファリサイ派はそういった議論にイエス様を巻き込み、揚げ足を取ろうとしているのです。しかし、イエス様はファリサイ派の質問に対して「結婚することの本質」をお語りになってその答えとされました。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」、そして「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という創世記の言葉です。結婚という婚姻関係の事柄は、現代でも当事者同士の問題と思われているかもしれません。それだけに繊細な事柄でもあります。しかし、イエス様は創世記の言葉を引用しながら、結婚という出来事は二人だけの出来事ではないと言われるのです。それもまた神の前にある出来事であると。

ファリサイ派は離縁についてモーセを通して言われたこと(申命記)を持ち出して反論しましたが、イエス様はしかしそれは律法ではなく、「あなたたちの心が頑固なので」仕方なく施した譲歩であると言います。人間関係の破れの中で、私たちの心はだんだんと頑なになっていきます。頑な、というのは何をも受け入れる隙間のない状態のことです。それはとても健やかな関係とは言えません。私たちはどのような関係であっても、神の前にある関係であります。だからこそ、健やかに共に生きていくことができるのです。

October 06, 2018

先週説教要旨 2018.10.7

先週説教要旨 2018年10月7日

「神は憐れんでくださる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第18章21~35節

 

 ある注解者は、ペトロに感謝をしています。なぜなら、ペトロは思ったことを口にすることで、イエス様から叱られたりたしなめられたりするのですが、その反面イエス様がお考えになっていることを聞き出してくれるからです。今日の箇所でも、ペトロがイエス様にある問いをお尋ねするところから始まりました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。

 当時、人を赦すのは律法の専門家である先生でも三回までなら、と言われていたそうです。それくらい、人間にとって人を赦すということが難しいことであるのです。ペトロはそれを二倍して、さらにもう一つ加えました。自分はこれだけ赦すことができる。少し得意になってイエス様に聞いたかもしれません。しかし、イエス様「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになってひとつのたとえ話をお話しされました。たとえ話に主に登場するのは、ある王と王から1万タラントンの借金をしている家来、その家来から百デナリオンの借金をしている家来です。1万タラントンは莫大な借金で、人間の一生をかけても到底払いきることのできるものではありません。それでも家来は「きっと全部お返しします」とその場しのぎの言葉で逃れようとします。王はその家来を憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったのです(27節)。

本日の聖書のポイントは、27節です。ペトロが尋ねたのは、どれくらい赦すべきか、でしたが、イエス様がたとえ話を通してお答えになったのは、なぜ赦すべきか、ということでした。27節が、私たちが七の七十倍、すなわち無限に人を赦す根拠です。私たちの努力や修行によって赦すのではなく、神が私たちを赦してくださったから赦すのです。イエス様の言葉は厳しい言葉です。現実を生きる中で、赦せないことはたくさんあります。しかし、誰かを赦せない憎しみのなかを生きるのではなく、罪赦されたこの軽さ、神の憐れみに目を留めるときに、赦せない苦しさから解放されていくのです。

September 29, 2018

先週説教要旨 2018.9.30

先週説教要旨 2018年9月30日

「キリストは生きておられる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第18章15~20節➁

 津示路教会の一番初めの礼拝で語られた説教の題名は、「キリストは生きている」でした。本日の説教題は「キリストは生きておられる」という題にしました。聖書箇所は同じではありません。最初の説教のときは、新約聖書の使徒言行録、当時は使徒行伝と呼ばれる書物の第1章3~5節でした。そこでどんな説教が語られたのか、記録は残されてはおりませんが、教会を始めるその最初にこの地にキリストが生き始めたことを語ることをもって礼拝を始めたことは、本当に大切なことだと思います。そして、津示路教会が礼拝を始めて51年、キリストはここに生きて働き続けてくださいました。そして、いまもここに生きておられるのです。

 しかし、キリストが生きておられることは目には見えることではありません。だから、ときどきキリストが生きておられる実感が得られないということが起こってくるかもしれません。目には見えないキリストをどうリアルに感じるか、という信仰において誰もがぶつかる問題です。そういう時にこそ、本日与えられた聖書の御言葉にある、イエス様の約束に目を留めたいと思うのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)。

 教会の歴史は権威の誤用との戦いの歴史でもありました。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)。教会内の誰に権威があるのか。人間は権威が大好きですから、権威がある者にすり寄ったり、目に見えるところに権威があるように間違ってしまったりします。しかし、教会の権威は、常に目には見えないけれど今も生きて働かれているイエス・キリストの権威です。キリストの前にある権威です。そのことを忘れてしまっては、私たちは正しい教会生活を送ることはできません。

 イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには」と言ってくださいます。この約束の言葉にいつも立ち帰りたいと思います。

September 22, 2018

先週説教要旨 2018.9.23

先週説教要旨 2018年9月23日

「兄弟を得るために」池田慎平牧師

マタイによる福音書第18章15~20節

 

 いま共に読んでいるマタイによる福音書第十八章は、珍しくイエス様が「教会」についてお語りになっている箇所だと言いました。今日読んでいただいたのは、その中心部分と言ってもよい箇所です。イエス様は教会の何についてお語りになっているのでしょうか。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉から始まります。イエス様が教会についてお語りになるとき、その運営の仕方でも、財政のことでもなく、伝道の仕方でもなく、罪のことを、しかも教会が罪をどう取り扱うのか、ということをお語りになるのです。今日の御言葉は、具体的には「戒めの規則」と書く「戒規」という教会法の根拠となった言葉です。

カトリック教会に行くと「告解室」というものがあります。映画やコントにも登場するので、知っている人もあるかもしれません。お互いに顔が見えない部屋に入り、自分が犯した罪を神父にお話しする部屋です。しかし、私のカトリックの友人が言うには、かつては告解室に列をなしていましたが、いまはあまり流行らないそうです。今の時代、誰かの罪のことは思っても、自分の罪のことには関心がないのかもしれません。

しかし、罪の問題を、なにより罪の重さを考えることなしに、イエス様を信じることはできません。「行って」(十五節)とあります。何をしに行くのか。「あなたは罪を犯しています」と言って祈りに行くのです。本人は気が付かないからです。それは教会が正義を行う機関だから、こちらの溜飲がそれで下がるからとか、そういう理由ではありません。「兄弟を得たことになる」(十五節)とあるように、神の目は罪の中で教会の仲間が滅ぶままにしておくことをお許しにならないからです。イエス様の十字架の恵みを無にするように罪の中にそのままでいたら、滅んでしまうのです。

いま、共に礼拝を捧げるこの私もまた滅びの中にいたのです。津示路教会は創立当初から祈りの教会だったと語られます。私たちはいま、互いの罪のために具体的に祈る教会でありたいと願います。

September 15, 2018

先週説教要旨 2018.9.16

先週説教要旨 2018年9月16日 創立51周年記念礼拝

「天使が父の御顔を仰ぐ教会」池田慎平牧師

マタイによる福音書第18章10~14節

 

 昨年度からマタイによる福音書を読み続けてまいりまして、本日教会創立記念を感謝し記念するこの礼拝で、教会について書かれた第18章を読むことは、神様から与えられた恵みとして感謝します。

本日与えられた聖書箇所は、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」という言葉から始まります。美しい言葉です。私はこの「いつも」という言葉に慰められます。私たちは神様の方をいつも向き続けていることができるでしょうか。そっぽを向いてしまうこともあるだろう、神様のことなどまったく考えない日もあるでしょう。しかし、私たち一人ひとりに与えられた天使は、いつも私に代わって父なる神を仰ぎ、見つめてくださっているとイエス様は言われるのです。十一節はここには書かれてはいないですが、「人の子は、失われたものを救うために来た」という言葉が後の時代に付け加えられたと考えられています。当時はコピー機などありませんから、人の手で書き写していました。その写本家の一人がこれを書き加えたと考えられています。おそらく、書かずにはいられなかったのではないかと思います。この神の方を向かない私のために、天使どころか人の子とご自分を呼ばれるイエス・キリストがおいでくださった。他でもない、この私自身が「迷い出した羊」であり、「失われたもの」であると。

このイエス様の言葉が教えてくれるのは、神様の愛は個別的な愛ということです。世界にはこれだけ人がいるのだから、私のことなど神は知らないだろう、とうそぶくわけにはいかないのです。そのように神様の愛から迷い出ようとするものをこそ、神は必死になって探し出すのです。そして、神の愛は忍耐強い愛です。一匹では生きていくことのできない羊を必死になって探す、それは文字通りその身を滅ぼしてまで、私たちを求めてくださるのです。

私たちは小さな者の集まりです。しかし、父なる神はこの小さな者の集まりにいまなおその眼差しを注いでくださっています。私たちはそのことを主イエス・キリストの御言葉を通して、聖霊を通して知ることができるのです。

September 08, 2018

先週説教要旨 2018.9.9

先週説教要旨 2018年9月9日

「命にあずかる選択」池田慎平牧師

マタイによる福音書第18章1~9節

 

 聖書を読んだ人の感想のひとつに、旧約聖書と新約聖書の雰囲気との間にギャップを感じるということがあるようです。旧約聖書には「滅び」の匂いが立ち込めているけれど、新約聖書には「愛」の匂いが満ちているといったような。しかし、今日の聖書箇所はイエス様が教会についてお語りになるなかで、非常に厳しい言葉が語られています。イエス様は「心を入れ替えて子どものようにならなければ」と言います。心を入れ替えて子どもになる、とは自分の子供時代に戻るということでも、あなたはまだまだ未熟だからもっと修行が必要なことを自覚する、というのでもありません。新しく生まれ変わるということです。新しく生まれ変わって神の子として生きることです。

新しく生まれ変わって神の子として生きる道。それは順風満帆ではありません。イエス様は神の子達を小さい者と呼びながら、世に生きる限りつまずきは避けられないこと、そしてつまずかせる者の不幸を語ります。

イエス様はなぜこのような厳しい言葉を語られるのでしょう。それは、つまずきの多いこの世にあって、私たちに命にあずかっていただきたい、新しい命に生きていただきたいからであろうと思います。たとえつまずこうとも、イエス様がその小さい者を受け止めてくださる。私たちの何が隣人をつまずかせてしまうのかはわかりません。私たちは世に生きる限り、世的なものを切り取ることは難しいのです。つまずかせる者は、とあります。つまずかせる者は深い海に、すなわち神様の光も届かないような暗闇に投げ込む、ということです。しかし、実際に深い陰府に下られ、切り刻まれ貫かれたのはイエス・キリストご自身でありました。私たちが命にあずかるために、自らが切り刻まれる選択を選んでくださったのは、他でもないイエス・キリストだったのです。新約聖書には確かに旧約聖書に見られるような滅びの匂いはないかもしれません。しかし、それはその滅びをこの方が一身に受けてくださったからに他ならないのです。ここに罪に対して旧約、新約を貫く神の徹底した態度と、思いもよらぬ仕方で私たちを救い出す神の恵みの御業があります。

September 01, 2018

先週説教要旨 2018.9.2

先週説教要旨 2018年 9月 2日 

「天の国に入るには」池田慎平牧師

マタイによる福音書第18章1~5節

 

  今日から第十八章を読んでまいります。第十六章に引き続き、福音書では珍しく「教会」という言葉が出てくるまとまりになっています。ある説教者は、いま教会に生きる私たちにイエス様から贈られた「教会憲章」だとも言います。その最初に書かれていたのは、イエス様のもとでいったい誰が一番なのか、という弟子たちの問いかけに応えるイエス様のお言葉でした。どうしてこのような問いが出てきたのかはわかりません。ぺトロがよく用いられていたことにねたみを抱いていたのかもしれません。とにかく弟子たちはイエス様に尋ねました。いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。

イエス様は、一人の子どもを呼び寄せ、彼らのなかに立たせて言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。「子どものようになりなさい」という言葉は、聖書を知らない人も知っている言葉かもしれません。それを間違って受けとるなら、キリスト教というのは子どものように純粋な人々の集まり、という誤解を生むのではないかと思います。しかし、イエス様は、あなたがたもこの子どものように純粋になりなさいと言ったわけではありません。

ここでイエス様が見つめているのは、子どもの純粋さではありません。そうではなくて、子どもが一人で生きていくことができない、子どもが必ず保護者を求めることを見つめているのです。イエス様もまた子どもとしてこの地上を歩みました。イエス様はお祈りを「アッバ、父よ」という小さい子どもが父親を呼ぶ時の言葉で始めました。そのように、イエス様の地上での歩みは、創造主なる神を父に仰ぐ生活でした。そして、そのようにこの方を父と仰ぐ生活を十字架を通して私たちにも開いてくださったのです。

教会はそのように、イエス様という長男に連なる神の子の集まりです。互いに神の子として父なる神を仰ぎつつ、同じく神の子として生きる兄弟姉妹を受け入れることができるのです。

August 25, 2018

先週説教要旨 2018.8.26

先週説教要旨 2018年 8月 26日 

「イエス・キリストの従順」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第2章1~11節

 

 フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙と呼ばれ、美しい文章に満ちています。しかし、それは人間の醜さを見過ごしにはしない美しさや喜びです。人間の醜さを知りながら、パウロは信仰における喜びや希望について語ります。だからこそこの手紙は本当に美しいと言えるのではないでしょうか。

 人間の醜さとしてパウロが挙げるのは、「利己心や虚栄心」(3節)です。利己心は、自己中心や党派心とも訳される言葉です。自己中心と党派心は真逆のような気もしますが、どちらも自分の利益に仕えるという点で共通しています。党派を組むのも、利害が一致しているからです。利害が一致していれば、たとえ馬が合わない人ともひとつになれるのです。そして、虚栄心。虚栄というのは字の通り、虚しい栄えです。これは虚しい意見と訳すこともできるそうです。自分自身について、虚しいことを考えること。それが虚栄心だと言います。自分について自分以上に見せようとする思いです。どうすれば、そのような人間の本性の中にある思いから、私たちは解放されるのでしょうか。

 パウロはそれに続けて、「へりくだって」と言います。謙遜という意味です。謙遜というのは、聖書を知らない人も知っているのではないかと思います。日本人の美徳のひとつとなっているかもしれません。しかし、ここで語られる謙遜は、聖書にしか語れない、信仰の出来事のなかで語られる謙遜です。へりくだって人を自分よりも、とありますが、どうすればそれができるか。自分にないものを相手が持っている、ということではありません。自分はダメな人間だとうそぶいてみることでもありません。ここで語られる謙遜は、神様の前に自分を置いて考える、自分は神によって造られた存在であることを知るときに見出す謙遜です。神様の前に自分を置く、すなわち例は生活を生きる、ここにこそ、利己心や虚栄心から解放され、めいめい自分のことばかりでなく他人のことを思う道があるのです。

August 11, 2018

先週説教要旨 2018.8.12

先週説教要旨 2018年 8月 12日     
「赦しと愛」濱田美恵子神学生 (東京神学大学夏期伝道実習生)  
ルカによる福音書第7章36~50節    
     
 ある日、イエス様はファリサイ派のシモンに招かれ共に食事をするために、彼の家へ行きました。その町にはすでにファリサイ派のシモンの家にイエス様が来るという噂が広まっていたのだと思います。ファリサイ派のシモンの家で祝宴を共にする人々のなかに、その町で「罪の女」と呼ばれていた女性も、イエス様にお会いするために自分の大切にしていた石膏の壺に香油を入れてやってきました。 
 女性はイエス様の寝転んでおられるかたわらに来るや否や、涙が止まらなくなってしまいました。しかし、人々は罪の女がイエス様のそばで涙を流し、イエス様の足を涙と自分の髪の毛で洗い、香油を塗っているのを厳しい目で見つめます。なぜ罪の女があんなに泣いているのか。イエス様も黙ってされるままにして、なぜ女を追い出さないのか。その家の主人であったファリサイ派のシモンもまた裁くように女性を見つめている時、「あなたに言いたいことがある」とイエス様はたとえを語り始められました。    
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(41,42節)。
ファリサイ派のシモンは、帳消しにしてもらった額の多い方だと思います、と答えました。
罪の女は、罪からの救いを求めてイエス様と関わり、本当の赦しを知って多く愛しそれを自分の大切な香油を塗るという仕方で表したのです。それに比べて、ファリサイ派のシモンは罪に対してのんきでありました。自分で自分を救えると思っていたのです。彼もまた帳消しにしていただいた一人であったのに。
 しかし、これは私の想像ですが、ファリサイ派のシモンもまた後に、イエス様によってすでに罪赦されている罪人であるという自分に気づかされ、主に仕え、真の礼拝者となり、愛を伝える者へと変えられたのだと思うのです。罪にのんきであった者も、イエス様の愛に気付いた時、悔い改めずにはおれないのです。

                                (要約文責:池田慎平)

August 18, 2018

先週説教要旨 2018.8.19

先週説教要旨 2018年 8月 19日 

「イエス様の自由」池田慎平牧師

マタイによる福音書第17章22~27節

 

 イエス様は、弟子たちに再びご自分が殺され、復活されることをお語りになりました。しかし、一度目とは違い、どこか他人事のようです。「人の子」「彼は引き渡され」「復活させられるだろう」と原語では受動態で書かれ、イエス様が主語ではないようです。主語となるのは、父なる神です。イエス様は父なる神のご意志にすべてを委ねています。しかし、それは仕方なくでも、強制されてでもありません。イエス様は自由に、神様のご意志に従うのです。

 今日の聖書箇所は、神の子としての自由について私たちに教えます。ある日、納税義務について収税人から問われたぺトロは、「納めます」と言ったきり家のなかへと戻ってきてしまいました。事情を察したイエス様は、ぺトロに問います。「地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」。ぺトロは「ほかの人々からです」と答えました。イエス様は王様のもとにあっても、子供たちは自由であることを確認します。「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」は、「子供たちは自由である」と訳せます。神殿の子、すなわち神の子たちは自由なんだ、イエス様はそのように宣言なさったのです。神の子「たち」は自由だ。ご自分だけでなく、主イエスの救いによって、共に十字架に死に、新しい命に生きるすべての者の自由を語ってくださったのです。そして神の子としてお持ちであったその自由を、イエス様は私たちを救うために十字架にかかることにお用いになりました。ここに父なる神とイエス様の愛があります。

 私たちは自分で自分を贖(あがな)うことはできません。魚の口から採った銀貨で税を支払うユーモアのあるエピソードは、私たちにそのことを知らせます。神様から与えられたものでなければ、私たちは自分を贖えないのです。イエス様の十字架がなければならないのです。イエス様の十字架こそが、私たちの自由を、愛に生きる自由を保証してくれるのです。

August 04, 2018

先週説教要旨 2018.8.5

先週説教要旨 2018年 8月5日 

「からし種一粒ほどの信仰」池田慎平牧師

マタイによる福音書第17章14~20節

 

 今日の聖書箇所では、イエス様の厳しいお言葉が続きます。山の上でイエス様がその神の子としてのご正体を現されたとき、そのふもとでは弟子たちが病を癒せないという現実が起こっていたのです。弟子たちの戸惑いや恥ずかしさがよくわかります。「信じているのにどうして」。私たちもしばしばこのような問いをもって主の前に立つのではないでしょうか。

そのような現実を前にイエス様は「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆かれます。「よこしま」とはねじ曲がった、とも訳されます。父なる神にまっすぐでない時代だ、と言われてしまう。しかし、それは弟子たちやこの父親を直接非難する言葉ではなく、「時代」を裁く言葉でした。

なぜできなかったのか。信仰が薄いからだ。では、薄く小さな信仰をどうにかして厚く大きくしなければならないのでしょうか。かつて聖書を写し取った人のなかにもそう考えた人があったようで、二十一節の言葉として「この種のものは、祈りと断食によらなければ」と付け加えた人がいたようです。しかし、今ではこの言葉はイエス様が語った言葉ではないと削除されています。なぜならイエス様は、もっと祈って断食して修行しろ、ではなく「からし種一粒ほどの信仰があれば」と仰っているからです。

からし種一粒の信仰、それは信仰とは私たちの中に頑張って生み出すのではなく、外から植えられるものということを教えます。私たちは毎週の礼拝で、そのように神が与えてくださる御言葉の種によって、生きた信仰を呼吸して生きているのです。呼吸は一回たくさん吸い込めばもう吸わなくても生きていけるというようなものではなく、呼吸し続けて生きていくのです。

July 28, 2018

先週説教要旨 2018.7.29

先週説教要旨 2018年 7月 29日 

「思いを一つにして」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第2章1~11節

 

 使徒パウロの勧めとして、「同じ思いになる」ことが語られています。これを読むときに私たちは同じ思いになることの難しさを教会内外でよく知っていることを思い出すのではないでしょうか。そして、「思いを一つに」、教会の外でもスローガンとして用いられます。しかし、ここでは何か私たちが努力し一生懸命になれということが語られているわけではありません。

 「思いをひとつにし」と使徒パウロが言っているのは、明らかに当時のフィリピ教会に思いがひとつになってはいない現実があったことを知らせます(1章15節以下)。パウロが獄中で知っているのは、フィリピの教会の中にパウロのことを思ってくれるグループと、パウロをねたみパウロの苦しみを一層深くしようとするグループがあったということです。これを読んでもしかしたら、初代教会という最初の教会においてですら対立があるということに驚き躓くかもしれません。しかし、パウロはそのことに絶望してはおりません。むしろ、そのような対立があってもそのことによってキリストの御名が宣べ伝えられていることを喜んでいます。そして、私たちが一致することのできる根拠へと私たちの目を向けさせます。

 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)。ここにあるのは子なるキリストによる励まし、父なる神の愛の慰め、霊による交わりといつも礼拝の最後に祈られる祝福です。私たちが一致するのは、何らかの利害によってではありません。既に与えられている三位一体の主の祝福によって私たちはひとつに結び合わされているのです。

July 14, 2018

先週説教要旨 2018.7.15

先週説教要旨 2018年7月15日 

「新しい命を得るために」池田慎平牧師

マタイによる福音書第16章21~28節

 

 「サタン、引き下がれ」。イエス様がぺトロを叱り飛ばしたこの言葉は、ぺトロが与えられた弟子の資格を奪うような、愛する弟子を引き離す言葉ではありません。私たちを神様から引き離すのは、いつでもサタンの誘惑です。サタンは私のなかにある罪に働きかけ、神から離れるように誘惑します。サタンと言っても、いわゆる悪魔のようなものをイメージするには及びません。私たちを神から引き離す勢力や存在は、私たちの身近にいくらでもあることを私たちは知っています。

ここではぺトロの善意がそのように働きました。たとえ善意であっても、神様のみ心とズレてしまうところにあるなら、それは神の思いを邪魔するものとなります。

 ぺトロが叱責されたのは、ぺトロを引き離すためではありません。ぺトロを元いた場所に、正確に言うならば召されたときの場所に戻すためです。漁師であったぺトロがイエス様から弟子として召されたとき、「わたしに従いなさい」と言われたのです。それ以来ずっとイエス様の背中を見て歩んできたぺトロが、ここではイエス様を飛び越えてしまっている。イエス様の前に、無理矢理体をねじ込むようにして、前に立ちはだかっている。

そんなぺトロにイエス様は、「わたしの後ろに立ちなさい」。ぺトロが本来立つべき場所を指し示したのです。

 私たちが立つべき場所はいつもここです。イエス様の後ろです。イエス様は私たちの先頭にたって、罪の報いを受けて

イエス様に従う、そのことで大切なことはこの二つです。自分を捨てる、ということと自分の十字架を背負うということです。

July 07, 2018

先週説教要旨 2018.7.8

先週説教要旨 2018年7月8日 三重地区講壇交換

「恵みの王座」地多政枝牧師(松阪教会)

ルカによる福音書第22章24~30節

 

 ルカによる福音書22章では、弟子たちが“イエス様を裏切るのは誰か”と議論を始めたこと、さらに “自分たちの中で誰が一番偉いか”という議論が加わったことが記されています。この二つの議論は、自分が属している集まりの中で、自分の置かれている位置はどこか、ということを弟子たちが気にしているということを表しています。それは、「自分こそが一番上に立つ者でありたい!」という本音が隠された偉さの順番を気にしているということでした。イエス様は、そんな弟子たちに譬えを示されます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」当時、異邦人の王や君主たちは、自分たちを「守護者」と呼ばせていました。人々は過酷な税金を課せられ、抑圧された苦しい生活の中で、そのような強いられた感謝や褒め称えの言葉を口にしながら仕えるしかありませんでした。イエス様は弟子たちに、そういう異邦人の偉さを求める者であってはならないことを示されるため、ご自分は、食事の席でいわば給仕する者であるとおっしゃって、仕えることの大切さを話されました。そして、「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」とおっしゃいました。それはこれから弟子たちが、人々の救いのために、主の御業に仕えるということと、弟子たちに備えられた王座とは、最も低き者となって歩まれたイエス様の御姿に倣う歩みの中で与えられる恵みの王座であるということなのです。

June 30, 2018

先週説教要旨 2018.7.1

先週説教要旨 2018年7月1日 

「教会を建てる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第16章13~20節

 聖書のなかでも有名な出来事が記されています。前半は「イエス様とは何者か」ということ、後半はマタイによる福音書独特のもので「教会の基盤と権威」ということについて語られています。その二つのテーマを結び付けているのは、ペトロの信仰告白です。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」。ここでは脊髄反射的な言葉ではなく、弟子たち自身の明確な責任ある言葉として信仰告白の言葉を聞くことができます。マタイはぺトロの言葉に、「生ける神の子」という言葉を記しています。あなたは生ける神の子なんだ、と。この生ける神の子というところにおそらくは全神経を集中させて、筆圧強く書き、語ったのではないかと思います。

イエスは生きておられる! 生ける、の反対はもちろん「死せる」です。死せる神は偶像です。偶像は動きません。しかし、生ける神は私たちのために具体的に働いてくださる神です。私たちの救いのために、十字架につかれることのもいとわない神です。今日の箇所は、マタイによる福音書のピークであり、分水嶺と言われます。ここから始まるのは、主イエスの十字架への旅。十字架。それは、主がメシアであることをどこまでも貫いてくださったゆえの出来事です。この方がどんなメシアであるのかを全うされたお姿です。私たちのためなら踏みつけられようが、鞭を打たれようが、十字架の上に磔にされようがそれをご自分の使命としてお受けになられる方です。

そして、ぺトロの告白はイエス様によって祝福を受けます。幸いだ、シモン・バルヨナ、よかったね。あなたはそれが言えたね。イエス様はそこに教会をお建てになったのです。

June 23, 2018

先週説教要旨 2018.6.24

先週説教要旨 2018年6月24日 

「目には見えないけれど確かな希望」池田慎平牧師

ローマの信徒への手紙第8章18~25節

 パウロはここで何をしようとしているか。主題は18節「現在の苦しみは、将来の栄光に比べれば取るに足らない」。パウロは現在の苦しみについて否定しません。しかし、パウロは苦しみのままで終わる苦しみについて語ることをしません。今の苦しみに勝る「将来の栄光」を語ります。パウロがここでしていることは、苦しみの先を指し示すことです。

パウロが語る言葉のなかで特に印象的なのは、「うめき」という言葉です。被造物が虚無に服している。虚無に服している、という言葉は、「目的を達成できない」という意味でもあるようです。被造物の目的とは、神を讚美することです。その目的をなぜ失ってしまったか。それは人間の罪のためです。私たちの罪は、私たち自らや他者のみならず、この世界全体、宇宙全体に影響を及ぼしている。だからこそ、被造物はうめく。目的を失ってしまったから。しかし、それは絶望へと流れていくうめきではありません。神のご支配のもとにある希望に結び付いたうめきです。

「待ち望む」という言葉は、向こうからやってくるよきものに向かって、両手を差し出すような姿勢であると言います。その姿勢は祈りの姿勢に似ています。待ち望むこと、それは祈ることです。私たちの内なることをただ神様に打ち明けることだけでなく、神様からの恵みを受け取る姿勢でもあるのです。

希望は目には見えません。しかし、教会の歩んできた歩みのなかに、目に見えない希望を見つめ、それによって生かされてきた歴史を私たちは知ることができます。パウロが苦しみの先にある将来の栄光を指し示した指は、教会が引き継いでいるのです。

June 16, 2018

先週説教要旨 2018.6.17

先週説教要旨 2018年6月17日 

「どうしてもわかってほしい」池田慎平牧師

マタイによる福音書第16章1~12節

 

サドカイ派とファリサイ派はそれぞれ立場の異なるグループでした。しかし、ここでは主イエスを試みようとしている点で一致しています。彼らが求めたのは、主イエスの天からのしるし、つまり神の子であることの証拠でした。しかし、主イエスは彼らの試みに対して、彼らは空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができない、としるしをお見せになることを拒まれます。彼らはしるしを見ても分からないからです。そして、しるしを欲しがる者には「ヨナのしるし」以外には与えられないと。ヨナのしるしとは、預言者ヨナが三日三晩魚の腹の中にいたように、主イエスもまた地の底に三日三晩いることになること、すなわち主イエスの十字架と復活が言い表されています。

弟子たちはサドカイ派やファリサイ派とは真逆の立場であったはずです。彼らは主イエスが神の子であるしるしを日々目撃していたはずです。しかし、彼らも主イエスがどのような方であるかをこの時すっかり忘れていました。だからこそ、パンを忘れてしまったというくだらない論争をしているのです。

弟子たちの前に、主イエスはいつもおられました。それと同じように、奇跡はいつも目の前にあるのです。今日私がこのように朝を迎えることができるのも、私たちがいま共に神を父と呼び、讃美を捧げること、それもまた一つの奇跡です。しかし、私たちの罪はそのことを見る目をふさいでしまいます。神の子がどこにおられるかを見失ってしまいます。その私たちに、主イエスは「まだ、わからないのか。覚えていないのか」と言われます。主イエスの声に従って、私たちは救いの御業を思い起こされるのです。

June 09, 2018

先週説教要旨 2018.6.10

先週説教要旨 2018年6月10日 

「慈しみ深き友なるイエス」池田慎平牧師

マタイによる福音書第15章29~39節

 今日の聖書箇所は、マタイによる福音書を読み続けてきた私たちにとって、すでに読んだような出来事として読むことができるかもしれません。病人をいやされたイエス様のお姿はこれまでにも何度も登場していますし、さらに男だけで四千人もの人を少しの食物でお腹を満たした出来事も、細かい数は違いますが十四章にあった出来事をなぞっているようでもあります。しかし、イエス様はここでの出来事をはっきりと区別なさっています(16章9,10節)。イエス様はたしかに同じ奇跡を繰り返し行ったのです。それは異邦人にも弟子たちにも、イエス様を遣わされたイスラエルの父なる神が賛美されるためです。

 注目したいのは、三十二節のイエス様が弟子たちにかけた言葉です。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」。この「かわいそう」という言葉は、「私は群衆を憐れむ」と訳することのできる言葉です。イエス様が人々を憐れんでいる。この憐れみ、というのは同情の心です。私たちはたとえ家族でも同じ思いになることが難しい時があります。しかし、イエス様が憐れむとき、同情されるとき、私たちと同じ痛みや苦しみを負ってくださるのです。誰にもわかってもらえなかったこの痛み、この苦しみをイエス様だけは分かってくださるのです。

 なぜそのようなことが可能であるのか、これはこの方が私たちに代わって私たちが負うべき十字架を担ってくださった方だからです。キリスト者の歩みに貫かれているもの、それはこのイエス様の憐れみです。そして、私たちもこの憐れみの業に従事するよう召されているのです。

June 02, 2018

先週説教要旨 2018.6.3

先週説教要旨 2018年6月3日 

「食い下がる信仰」池田慎平牧師

マタイによる福音書第15章21~28節

「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(21節)。そこは、イエス様がお生まれになった地からみれば外国の地、異教徒が住んでいる町の名前です。イエス様はなぜガリラヤを離れてそこへと来られたのでしょうか。イエス様はこの時、とてもぶっきらぼうに、すべての情報をシャットアウトしているようにも見えます。イエス様はこの異邦人の地に、望みを失って来られたのでした。ファリサイ派や律法学者たちに追われ、郷里で受け入れられないという経験をし、イエス様の言葉や奇跡には関心を寄せても、イエス様がどのようなお方であるかには誰も興味を示さないという現実にひどく傷付いていたのでした。

しかし、弟子のペトロに先立ってここ異邦の地でカナンの女の口から、主イエスに対する信仰告白の言葉が語られます。「主よ、ダビデの子よ」(22節)。それでも主イエスは心をお開きにはなりません。女は食い下がらずに、イエス様の言葉を逆手にとって「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)と答えました。その言葉にイエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と目をぱちくりさせて驚き、娘の病気が治るようにしてくださいました。名もなきカナンの女が、イエス様の目を新たな世界へと向けました。イエス様は自分の救いの力が世界に及ぶことに気付かれたのです。

私たちは、このカナンの女の信仰を見て、自分がまだ祈りが信仰が足らないと思うでしょうか。しかし、この出来事が私たちに教えてくれるのは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7章7節)という言葉の成就です。私たちはもっとイエス様に求め、み跡を探し、門をたたくことができるのです。

May 26, 2018

先週説教要旨 2018.5.27

先週説教要旨 2018年5月27日 

「福音にふさわしい生活」池田慎平牧師

 フィリピの信徒への手紙第1章27~30節

 

 「ふさわしい」という言葉を聞くとき、私たちははたして自分がそれにふさわしいかどうかを自分で判断したり、自分はふさわしくないから一生懸命ふさわしい者になろうとしたりいたします。しかし、ここで語られるふさわしさとは、そういうふさわしさではありません。キリストの福音にふさわしいとは一体どういうことか。「ふさわしい」という言葉の原語の意味を調べると、同じ価値を持つ、という意味があります。神が私たちを罪から救うために独り子であるイエス・キリストを十字架につけられた、そのことと同じ価値を持つ何かを私たちは持ち得ているでしょうか。いいえ、持ち得ないからこそイエス・キリストが十字架にかかってくださったのです。

福音にふさわしいかどうか、それは主が決められることです。ですから、今日の気分や何か悪いことをしでかした、と思うときに「私はふさわしくない」と判断して妙な謙遜に走ることは間違っています。そして、キリストの福音に自分を合わせようと背伸びをしたり、何かにしがみついたりする必要もありません。そもそも福音にふさわしい者などいないのです。しかし、ふさわしくない者をふさわしい者と呼んでくださる、福音においてその恵みの転換が起こるのです。神が私たちをふさわしくしてくださる。だから、私たちはそこにとどまりたいと願います。

パウロは語ります。キリスト者には戦いがあることを。その戦いとは、私たちを何とかしてキリストから引き離そうとする戦いです。私たち自身はその誘惑に打ち勝つための武器を何も持ち合わせてはおりません。死にも罪にも打ち勝ってくださった主イエスのもとにとどまることこそ、私たちが唯一それに勝つ道です。

May 19, 2018

先週説教要旨 2018.5.20

先週説教要旨 2018年5月20日 

「風は野を越えて」池田慎平牧師

マタイによる福音書第15章10~20節

本日はペンテコステ(聖霊降臨日)を祝う礼拝です。ペンテコステは教会の誕生日とも言われ、それだけでなく教会の語る言葉が与えられた、言葉が改革された日でもあったと思います。

今日の聖書箇所は、15章1~10節の続きです。聖なる生活をするために手を洗う、ということをファリサイ派が問題にしたのです。しかし、イエス様はファリサイ派が聖なる生活に執着するために、神の戒めに違反しているという矛盾を指摘します。今日の聖書箇所でイエス様は「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」(13節)と言われました。とても厳しい言葉です。あなたがたは天の父が植えた木ではない、と言うのです。天の父がせっかく植えてくださったのに、それを自分で植えなおして自分で植えたつもりになっている罪を指摘されたのです。そして、問題は「心」にあることを語られました。口に入るもの(食事)は人を汚さず、口から出て来るもの(言葉)が人を汚す。そして、言葉は心から出て来る。その心が問題だと。誰もが言葉で人を傷付け、言葉で傷付けられた経験があるはずです。私たちは人を汚す言葉しか語れず、抜き取られてしまう木として主の前に絶望しなければなりません。

しかし、実際に抜き取られたのは誰だったでしょうか。十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私を」と叫ばざるを得なかったイエス・キリスト御自身です。そして、天の父、そして主イエスは私たちに約束の聖霊を贈ってくださいました。聖霊は旧約の時代から待ち望まれていた、人間の内に新しい心と言葉を創造される神です。この聖霊が私たちを教会たらしめているのです。

May 12, 2018

先週説教要旨 2018.5.13

先週説教要旨 2018年5月13日 

「言い伝えを超える言葉」池田慎平牧師

マタイによる福音書第15章1~9節

 

 今日の御言葉は、ファリサイ派と律法学者たちが「なぜあなたの弟子たちは手を洗わないのか」と指摘したことから始まりました。彼らはエルサレムから来たとあります。中央から、いわば本部から来た。イエス様がいよいよファリサイ派の本部にも目をつけられた。十字架への道のりがかすかに動き始めています。

 ここで言われている手を洗う、というのは、衛生上のことではありません。宗教上の清さを問う問いです。「昔からの言い伝え」とは、ファリサイ派が決めた細かい生活のルールのことです。清い生活を送るために手の洗い方まで規定されていたのです。

 そのファリサイ派の指摘に対して、イエス様はさらなる批判で返されます。「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」(6節)。ファリサイ派の人々は、何とかして清い生活を送ろうと一生懸命になった人たちです。しかし、清い生活をしようと努力をする中に、いつの間にかそちらの方にばかり気が取られ、神の言葉を無視するということが起こってきたというのです。その例として、イエス様は父母に差し上げるべきものを神の捧げものにするから、父母を敬うことは免除されるといったような矛盾が起こっていることを指摘します。これは父母を敬え、という神様のおきてに違反しているのではないですか、と。

 なぜ、このような矛盾が起こってくるのでしょうか。それは神様の支配領域に勝手な線引きをしてしまったことにあります。ここからは言い伝えで乗り切らねばならない。しかし、神様の支配領域というのは、私たちのすべての生活に貫かれています。なぜなら、この方は「今も生きて働かれている神」だからです。

May 05, 2018

先週説教要旨 2018.5.6

先週説教要旨 2018年5月6日 

「僕は君の味方」池田慎平牧師

マタイによる福音書第14章13~36節

 

 弟子たちが乗った小さな舟が、ガリラヤ湖上を進んでいきます。そこにはイエスさまはおられません。それはまるで現在の私たちの教会の姿のようです。私たちはイエス様を信じていますが、イエスさまはこの目で見ることができるわけではありませんし、その声に、その御体に触れることができるわけではありません。弟子たちはイエス様不在の中で風や波に阻まれて漕ぎ悩み、まるで同じところをぐるぐるして全く前進ができないような状況の中で不安と苦しみの中で夜明けを待たねばなりませんでした。

彼らが湖に漕ぎ出したのは、自分たちの意思ではありませんでした。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」(二十二節)とあるように、イエス様の命令であったのです。弟子たちを先に行かせ、イエス様はどこへ行っていたのでしょうか。「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」(二十三節)。イエス様は一人になられて、祈りをしておられたのです。イエス様の祈り、それは決して独りよがりな祈りではありません。イエスさまの夜を徹しての祈り、それはゲツセマネにもあるように私たちのための十字架を受け入れるための祈りでした。ここにも、主イエスの深い憐れみ(十四節)があります。この舟には、いつもイエス様の祈りがあります。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(二十七節)。水の上を歩いて舟に近づいてきたイエス様を、弟子たちはその不思議さから恐れました。しかし、イエス様は御自分を示し、沈みかけている私たちの手を取ってくださいます。

April 28, 2018

先週説教要旨 2018.4.29

先週説教要旨 2018年4月29日 

「生きるとはキリスト」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第1章20~26節

 本日は今年の年間標語でもあるフィリピの信徒への手紙第1章の言葉を読みました。「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」というパウロの言葉は、不思議な響きを持っています。「死んだら終わり」という世の常識とは真っ向から抗う言葉だからです。死ぬことは損、死んだら終わり、という考えのなかで、「よく生きること」は自分の欲望を満たすことで果たされるでしょうか。しかし、人間の欲望に限りはありません。どうしたら、自分の欲望から解放されて本当によく生きることができるのか。パウロはその生きることについて語ります。

 20節には、パウロが生きるにも死ぬにも人生の目的としているものが示されています。それは自分自身ではありません。パウロが執着するのは、自分ではなくキリストだけです。キリストの救いが伝えられることだけです。なぜなら、キリストの救いとは、他でもない、神がこの私に執着してくださったことによって賜った救いの恵みであるからです。私が私に執着するよりもはるかにまさって、神がこの私に執着してくださった。この地上に独り子であるキリストの命を惜しみなく捧げるほど、私たちにこだわってくださったからです。

 21節の言葉は、原文を直訳すると、「生きること、キリスト。死、利益」というように動詞抜きで書かれています。パウロはそれほどまでに生きることがキリストに迫っています。それは、キリストが新しい命を抱いて私たちに迫ってきてくれたからです。その新しい命は死によって潰されてしまうような命ではありません。だから、死は損ではなく、利益だと言えるのです。

April 21, 2018

先週説教要旨 2018.4.22

先週説教要旨 2018年4月22日 

「二つの食卓」池田慎平牧師

マタイによる福音書第14章1~21節

 

  マタイによる福音書は、先週読みました13章の終わりから、イエス様の受難へと次第に舵を切っていきます。今日はふたつの出来事を一気にお読みしました。ここに共通しているのはどちらも食卓がもうけられているということです。かたやヘロデ王の誕生日の宴席。もうひとつはイエス様が整えられたパンと魚だけの質素な食卓です。私たちはこのコントラストに世の価値観に抗うキリストの歩みを見出します。

 「あれは洗礼者ヨハネだ」との1,2節のヘロデの言葉は、洗礼者ヨハネに対する敵意が同じようにイエス様に向かったことを示します。この宴席ではヘロデが主役となっています。「願うものは何でも」。自分に手に入らないものはないと思っています。ですからヘロデは、当時律法で禁止されていた兄弟の妻ヘロデヤとの関係も物ともしません。誰も指摘することのできなかった王の罪。その罪を真っ向から非難したのが洗礼者ヨハネでした。世にあって、世と妥協しない。キリスト者として生きる中で、世と対立する。それがキリスト者の十字架です。それは抽象的なことではありません。具体的な生活の中で与えられる問題です。

 イエス様は、ヨハネの死を聞いて、「ひとり人里離れた所に退かれ」ました。イエス様が世に立ち向かわれる(十字架の)時はまだ来ていません。しかし、世に立ち向かわれるために、主イエスはただ神に向かわれます。イエス様が設えた食卓にはきらびやかなものも、高価なものも、私たちの健康を増幅するものもありません。しかし、主イエスの食卓は、新しい命を与える豊かさがあります。主にある小ささは、決して小さくないのです。

April 14, 2018

先週説教要旨 2018.4.15

先週説教要旨 2018年4月15日 

「イエス様を信じるために」池田慎平牧師

マタイによる福音書第13章53~58節

 

 イエス様は、たとえ話を語り終えた後にご自分の故郷であるナザレに戻られました。そこから新しい物語が始まっていきます。故郷のナザレでも、イエス様は会堂で教えていました。おそらくここでも、天の国についてお教えになっていたのだと思います。イエス様の言葉を聴いて、人々は驚きました。びっくりしたのです。イエス様の知恵のある言葉にいたく感心したのです。しかし、その驚きの着地点は、イエス様を信じるということではありませんでした。五四節にあるように、彼らはイエス様に躓いたのです。

イエス様にびっくりする、驚く。そのことがすぐに信じることに結び付くわけではない、というのは私たちにも起こることです。牧師の説教や、教会で聴いたことに感心することがあったとしても、感心だけして帰ってしまう。なぜそうなるのでしょうか。ある聖書の訳では五十五節の言葉をこう訳していました。「たかが大工の息子ではないか」。ここにはナザレの人々のねたみやさげすみの思いが現れています。彼らが躓いたのは、天上のイエス様です。イエス様が必死になって天の国を指差しているのに、彼らの目には地上のイエス様しか見えなかったのです。ねたみや嫉妬の思いは、物事をきちんと見ることを阻害します。そして、それは次第にイエス様を十字架にかけて殺すほどに大きくなっていくのです。

イエス様を信じる。そのことに躓きは避けられないかもしれません。しかし、イエス様は躓きを乗り越えることを待っておられる方です。自分の思いを捨てて、この方を見つめましょう。

April 07, 2018

先週説教要旨 2018.4.8

先週説教要旨 2018年4月8日 

「天の国のたとえ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第13章44~52節

 

第13章は、イエス様の語られた「天の国のたとえ」に満ちた箇所です。そして、今朝開きました箇所においても、主イエスの語る天の国、すなわち神様のご支配についてのたとえが三つ語られています。はじめの短い二つのたとえは、誰もがわかるようでいて、本当はわからないたとえ話です。いくら価値があっても、その他すべてのものを捨ててしまうということは、あまり起こらない出来事ではないでしょうか。しかし、天の国を見つけた者はその他のことは一切貧しくなるというのです。富める若者に「すべてを捨てて私に従ってきなさい」と言われた主イエスの言葉のように、ここでは弟子たちに召命の出来事を語るのです。天の国(ここでは主イエスの十字架)の価値は相対的には価値のあるものと映らないかもしれない。土にまみれた、みすぼらしいかもしれない。しかし、そこには私たちの罪を解決するものがある。

最後のたとえには、「網」という言葉が出てきます。この「網」というのは地引網、海の底から根こそぎさらっていく網のイメージです。キリスト者になる、ということは、この網に捕らえられるようなものです。漁に出かけるのは、たいてい夜でありました。夜に網を下ろす、ということは、まだ朝の訪れていない世の暗闇の中に神の御手が降ろされる、ということです。私たちはいまだ網の中で、暗い海の中で夜明けを待たねばならないかもしれません。しかし、網は私たちの自由を奪うものではないのです。むしろ、安全に朝を迎えることができるように守るものです。ですから、私たちはこの網の中でじっと朝を待つのです。

March 31, 2018

先週説教要旨 2018.4.1

先週説教要旨 2018年4月1日 

「あのかたは墓にはおられない」池田慎平牧師

ルカによる福音書第24章1~12節

 イースターの朝を迎えました。私たちはこの日曜日ごとに、主イエス・キリストのご復活を喜び祝います。しかし、今朝開いた聖書の御言葉に記録されているイースターの朝についての報告は、喜びの声で満たされているわけではありませんでした。
 安息日の直前に何もできずに主イエスの埋葬を見届けた婦人たちは、せめてイエス様のお体をきれいにして、丁寧に埋葬しようと安息日が開けた朝一番に、イエス様の墓へとやってきたのです。そこで婦人たちが目撃したのは、イエス様のお体がどこにもない、という事態でした。しかし、輝く衣を着た二人の人(天使)が、婦人たちに語りかけます。「あの方は、ここにはおられない」。そして、そのことを確かに知らせるためにイエス様がガリラヤでお話になったことを「思い出しなさい」と言いました。婦人たちからその話を聞いた弟子たちは、信じませんでした。しかし、ぺトロだけは一人で走った。それでも、やはりそこには主イエスは見いだせなかった。復活されたからです。復活の朝は、会えると思っていた場所でイエス様にお会いできなかった嘆きに満ちています。
  いま読んでいる本に、「大胆に絶望せよ」という言葉がありました。なぜ、大胆に絶望できるのか、それは自分たちの可能性に絶望するところに、神様の可能性が見えてくるからです。復活の恵みは、私たちが自分自身に絶望するところにあります。私たちの内をいくら探しても、復活という解決策は出てきません。しかし、望みを失ったところに新しい希望を置いてくださる。それが父なる神の御業である復活の出来事であるのです。

March 24, 2018

先週説教要旨 2018.3.25

先週説教要旨 2018年3月25日 

「天の国の種」池田慎平牧師

マタイによる福音書第13章31~35節

 

 イエス様は「天の国」について、なおも別のたとえを持ち出してお語りになりました。イエス様はここで「からし種」と「パン種」というどちらも小さくちっぽけなものを「天の国」のたとえとしてお用いになります。

「からし種」というどんな種より小さな種が、「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(32節)。ここにはどんな存在でもその救いのご支配に入れられる神の国の大きさがイメージされています(ダニエル書第4章7~9節)。「パン種」は聖書では汚れのたとえとしても用いられます。しかし、ここではイエス様はそれを転じて良いたとえとして語っています。

どちらのたとえにも共通していることは、どちらも小さいものが大きいものに埋め込まれ、また混ぜられることによって見えなくなってしまうということが言われています。三十三節の「混ぜる」という言葉は、ギリシア語では「隠す」と同じ意味の言葉だと言われます。「からし種」も土に蒔かれたら、パン種も一度小麦粉に混ぜ込んでしまったら、そこから分離して取り出すことは不可能です。小さすぎて隠れてしまうからです。私たちの目には見えないようになってしまいます。イエス様は、神の国も同じように、私たちの現実においてちっぽけなもの、目には見えないものとして隠されているけれども、時が来れば、それは力を発揮し、目を出し、化学反応を起こし、想像もつかないような大きさになることを語ります。今は目には見えないかもしれない。しかし、確実に神の国は成長しています。

March 17, 2018

先週説教要旨 2018.3.18

先週説教要旨 2018年3月18日 

「毒麦のたとえ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第13章24~30、36~43節

 

マタイによる福音書第13章には、イエス様が語られたたとえ話がまとめられています。しかし、本日与えられたいわゆる「毒麦のたとえ」と呼ばれるイエス様のたとえ話は、マタイによる福音書にしか記されていません。他のたとえ話と比べても、このたとえ話は暗く鋭利に感じるかもしれません。それほどマタイの教会の現実には、かなり厳しいものがあったのでしょう。そのように教会はそのはじめから様々な現実と戦わねばならなかったということがわかります。しかし、今日のたとえ話はそのような現実と戦われ、また打ち勝ってくださるのは神様ご自身であることを教えてくれます。

たとえの舞台は、良い種を蒔いた畑です。しかし、そこに夜中に敵(悪魔)によって毒麦が蒔かれてしまうことから出来事が始まります。朝になって畑を見た僕たちは慌てふためきました。明らかに毒麦とおぼしき植物が自分たちの畑に伸びてきて、良い種よりも成長しているように見えたからです。慌てて主人に言います。「行って抜き集めておきましょうか」。しかし、主人は「両方とも育つままにしておきなさい」と言います。なぜなら、抜こうとすればよい実をも抜いてしまいかねないから。そして、良い実と悪い実とを分けるのはイエス様の仕事(41節)であるから。

良い実、悪い実。それは私自身のなかにもありうるものです。自分でそれを抜こうとすれば、自分自身を抜き取ってしまうことになるかもしれません。しかし、終わりの日に毒麦を滅ぼしてくださる。御言葉において、その業はすでに始まっているのです。

March 10, 2018

先週説教要旨 2018.3.11

先週説教要旨 2018年3月11日 

「聞く耳のある者は聞きなさい」池田慎平牧師

マタイによる福音書第13章1~23節

 

 今日の御言葉の中心がどこにあるかと言えば、九節の「耳のある者は聞きなさい」という言葉であろうと思います。イエス様は不思議な言葉で、「聞くこと」を求めます。耳は誰しも持っているものです。誰しもが「耳のある者」でありましょう。けれども、旧約聖書をたどっていくと、耳のある者たちがいかに聞かなかったか、という歴史を紐解くことができます。例えばそれは、十四、十五節に引用されているイザヤ書第六章において、またエレミヤ書第二十五章にも具体的に「聞き従わなかった民」について記してあります。

「福音を聞く」ということは、ただ良い言葉を聞いてそれによって生きる、ということではありません。私たちの心を慰める良い言葉というのは、世の中に溢れているでしょう。しかし、福音においては、私たち自分たちの罪に気付かされ、自分たちの存在が覆されるという経験をいたします。福音を聞くことにおいては、私たちは自分の罪と切り離して聞くわけにはいかないのです。

イエス様は福音が聞かれない現実だけでなく、「しかし」と弟子たちを見回しながら言われます。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなた方の耳は聞いているから幸いだ」(十六節)。「幸いだ」という言葉は山上の説教でも用いられた祝福の言葉です。なぜ、彼らは幸いなのか。それは預言者たちが見たくとも見られなかった、聞きたくとも聞けなかったものを見聞きしているからです。それは何か。それは主イエス・キリスト御自身です。主イエスの十字架。それが私たちの内に蒔かれてくださるのです。

March 03, 2018

先週説教要旨 2018.3.4

先週説教要旨 2018年3月4日 

「福音は前進する」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第1章12~19節

 

 「フィリピの信徒への手紙」は、別名「喜びの手紙」と呼ばれています。他の福音書や手紙にまさって、手紙の書き手である使徒パウロが「喜び」という言葉を多用している上、パウロ自身が心からの喜びをもって書いていることがわかるからです。しかし、パウロは人間的に見て、決して喜べるような状況にあったわけではありません。むしろ、福音を宣教したことによって投獄されるという、絶望してもおかしくない状況にありました。

それなのに、パウロはどうして喜ぶのでしょうか。それはこのような状況にあっても、神の御言葉は、福音は前進する、さらに多くの人々に伝わっていくことを確信し、また自身がキリストの名によって捕らえられていることが兵営全体に知れ渡り、そのようにしてキリストの名が宣べ伝えられていることを喜んでいるからです。パウロは、福音を宣教する、という業が自分発信のものではないことを知っています。6節に「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあるように、教会の業は神の業であることを知っているのです。ですから、パウロはたとえ人間的に困難な状況に陥っても、そこに神の姿を見つめます。もちろん、災いがすべて幸いに換わるわけではないかもしれません。しかし、それでもなお、パウロは悪いことのなかにも、神が働かれないことはないことを確信しているからこそ、パウロは決して絶望しないのです。そして、そこには「主に結ばれた多くの兄弟たち」の祈りがあるのです。

February 24, 2018

先週説教要旨 2018.2.25

先週説教要旨 2018年2月25日 

「イエス様の孤独」池田慎平牧師

マタイによる福音書第12章46~50節

 

 イエス様の家族と言えば、クリスマスの物語を知っている人なら誰でも、母マリア、父ヨセフの名が出てくると思います。そして、それだけでなく、聖書にはイエス様には何人かの兄弟姉妹があったことを伝えます。しかし、イエス様は家族と過ごされる、ということをされませんでした。むしろ神の国を伝える伝道のために家を出てからは、家族の団らんからは離れておられました。御自分の語る言葉や業が、家族の者からは理解されなかったのです。ですから、故郷においてもイエス様は奇跡を行われませんでした。それはとても寂しい道のりであったかもしれません。けれども、イエス様はお一人ではありませんでした。天の父である神の御心を行う、という使命に生きておられたからです。そして、共に御心を行う者たちが与えられていたからです。

今日の聖書は、あまり細かいことを描写してはいません。他の福音書には、「あの男は気が変になっている」という人々の噂を聞いて取り押さえに来たイエス様の家族のことが書かれています(マルコ3章)。しかし、ここにはただ「外に立っていた」とあります。イエス様の御言葉を聴く群れの中には彼らは入らなかったのです。このことは象徴的なことでもあります。外に立っていては、イエス様の本当のお姿は見えてこないのです。しかし、イエス様は心を開いて、耳を傾ける人々に「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言ってくださいます。私たちもイエス様の家族となりましょう。

February 17, 2018

先週説教要旨 2018.2.18

先週説教要旨 2018年2月18日 

「時代を裁くしるし」池田慎平牧師

マタイによる福音書第12章38~45節

 

「しるし」とは証拠のことです。律法学者とファリサイ派の人々は、イエス様にしるしを求めました。あなたが救い主である証拠を見せてください、と言うのです。証拠を出せば、私たちは信じますよ、と。しかし、イエス様は彼らのその態度に対し、「よこしまで神に背いた時代の者たち」と厳しい言葉で批判されます。ここには「時代」という言葉が多く登場しますが、何か「時代」と呼ばれる空気のようなものを指しているのではなく、時代を作っている一人ひとりが見つめられています。イエス様の前に立つとき、私たちも知らず知らずのうちに「しるしを求める」ということをしていないでしょうか。しかし、イエス様はすでに「しるし」は与えられていると語るのです。

イエス様は旧約聖書の登場人物である「ヨナ」(ヨナ書)と「南の国の女王」(列王記下)の名を挙げながら、「しるし」はすでに与えられていることを語ります。当時悪名名高かったニネべの町の人々は、大魚の腹の中で三日三晩を過ごしてニネべへと派遣された預言者ヨナの語る神の言葉に立ち返った。当時世界の果てと思われていた南の国から、ソロモン王の語る神の知恵を聴きに女王が訪問した。それらを語る意味は何か。イエス様はそっと「ここに、ヨナ(ソロモン)にまさるものがいる。」とひかえめにご自分を指差すのです。あなたは見失っているかもしれないが、私はここにいる。イエス・キリスト、彼こそが神様がこの地上を、この私をお見捨てになってはおられない最大のしるしです。

February 10, 2018

先週説教要旨 2018.2.11

先週説教要旨 2018年2月4日 

「木は実に、人は言葉によって」池田慎平牧師

マタイによる福音書第12章33~37節

 

 「木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる」。ここでイエス様は、木が結ぶ実を比喩に用いながら、人が口にする言葉についてお語りになります。なぜ、ここで言葉について語るのか。それはファリサイ派が言葉において罪を犯していたからです。このイエス様の言葉は、ファリサイ派がイエス様を悪霊の仲間だ、と非難し、イエス様が「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(三十二節)と言われた文脈のなかに置かれています。聖書は、言葉と存在とが結び付いていることを指摘します。「本音と建て前」があるわけではない。聖霊を汚す言葉を、つまらない無益な言葉を語らない。それは言葉だけを改める、ということではなく、その人自身が改まらなくてはならなりません。しかし、そんなことが可能なのでしょうか。

旧約聖書のエレミヤ書には、私たちの存在そのものともいうべき「心」について多く言葉を割いています。エレミヤ書第十七章九節の言葉は有名です。しかし、その病んだ心を誰が癒すのでしょうか。それはほかでもない父なる神です。「そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エレミヤ書第二十四章七節)。私たちを根底から変えてくださるのは、神以外に他なりません。そして、そのことを成就してくださったのがイエス・キリストの福音です。私たちはキリストの福音に生きるとき、無益な言葉を捨てて、自由な言葉に生き始めるることができるのです。

February 03, 2018

先週説教要旨 2018.2.4

先週説教要旨 2018年2月4日 

「キリストの日に備えて」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第1章1~11節

 

 私たちは今年、フィリピの信徒への手紙から、2018年を通して学びたいと思います。フィリピの信徒への手紙を聖餐の時に読み進めていきたいと願います。少し概要的なことを言いますと、この書簡は、「手紙」とありますように、新約聖書の中にいくつか収録されている手紙の一つです。

パウロはこの手紙の冒頭部分で、「キリストの日」という言葉を二度用いながら、フィリピの教会の人々がキリスト者としてどのように歩むべきか、キリスト者はどこへと向かっているのか。あてどない旅をしているのではない。終わりのない旅をしているのでもない。私たちは宛先を持っている人間であることを示します。そして、その道を歩むとき、私たちをいつでも新しく生かし続けるのは、パウロがこのフィリピの信徒への手紙の中で繰り返し用いる「恵み」です。「恵み」は私たちにいつでも驚きと喜びと感謝を引き起こします。

パウロの言う恵みとは、「福音にあずかっている」ということです。人間的な親しさを越えて、パウロと教会の人々の間には、共に福音にあずかっているという関係がありました。そして、そのことが、教会のことを思う度に、パウロが感謝し、喜び、祈っている理由なのです。「あずかる」は「交わり」とも訳せる言葉です。つまり福音とは、ただ聞くものではなく、あずかるものであり、それによって、交わりが生まれていくものなのです。そして、教会において「交わり」を深めるとは、まさに、ここでパウロが語る「福音に共にあずかる」と言うことに他ならないのです。

January 27, 2018

先週説教要旨 2018.1.28

先週説教要旨 2018年1月28日 

「神の国がここに」池田慎平牧師

マタイによる福音書第12章22~32節

 

 「そのとき」とマタイは、イエス様が起こされる新しい出来事へと私たちの目を向けさせます。そこでは、人々は二つに別れていきます。イエス様の業に素直に心を動かされ、この方こそ長い間待ち望まれていた「ダビデの子」(救い主)ではないか、と従っていく群衆たち。かたや、イエス様を殺そうと話し合うファリサイ派の人々です。彼らはイエス様のいやしの業を「悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出しているのだ」と事実を曲解して対抗します。

 イエス様は、もしご自分がサタン側だったとして、サタンが味方を追い出すというようなことをすれば、組織はたち行かなくなるということ。彼らの仲間たちも悪霊を追い出す業を行っているがあれは一体何の力によるのか、ということを問うて反論します。彼らはすっかり自己矛盾を起こしていたのです。イエス様はさらに「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われました。これはとても強い言葉です。あなたがたの、救い主として来られた方を見損なってしまうような、見るべきものを見ようとしない、聴くべきものを聴こうとしない者たちの上に、拒否することも逃れることもできない仕方で、神のご支配は来ていると。これこそイエス様が神の霊によって開かれる新しい出来事です。

 ファリサイ派の罪、それはいまここにあり、そして将来に完全にあらわれる神のご支配を見ようとしないことです。私たちもすぐにそのファリサイ派根性に陥ります。だから、私たちはいつも新たにキリストに向かって目覚めていなければならないのです。

January 20, 2018

先週説教要旨 2018.1.21

先週説教要旨 2018年1月21日 

「正義を知らせる僕(しもべ)」池田慎平牧師

マタイによる福音書第12章9~21節

 

 イエス様が会堂にお入りになった。それは単純にイエス様が礼拝堂に入っていかれたことを説明する文章ではありません。会堂はイエス様と対立するファリサイ派の本拠地です。そこに自ら入り込んでいった、すなわち相手の中に入っていって、相手を変えておしまいになる、それが福音そのものであるイエス様のなさる方法でした。

安息日に会堂にて癒しを行ったイエス様は、ファリサイ派の人々から命を狙われます。そのことを知ったイエス様は、今はその時ではないゆえにそこで闘うことも抵抗することもなく、退かれました。マタイはその姿に、旧約聖書イザヤ書第四十二章にあらわされた主の僕の姿を見たのです。父なる神に選ばれ、神の霊によって権能を与えられ、異邦人を含む世界に正義(ただひとつの真理)を伝える主の僕。しかもそれは世がする仕方ではなく、神を知らなかった者たちが、本当の意味で生きることができるように。傷ついた葦を折らず、いまにも消えそうなくすぶる灯心を消さない仕方で。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ十章十七節)。御言葉に聴き続ける、ということは福音そのものであるイエス・キリストを自らの中に受け入れることです。御言葉は私たちの罪に気付かせます。そして罪に気付いたとき、私たちは神に向かって何も恥じらうことなく手を伸ばすことができるのです。

January 13, 2018

先週説教要旨 2018.1.14

先週説教要旨 2018年1月14日 

「本当の安息を与える方」池田慎平牧師

マタイによる福音書第12章1~18節

 

 イエス様とファリサイ派が「安息日」を巡って対決しています。弟子たちの後ろを歩いていくイエス様に、ファリサイ派の人々が弟子たちのしていることを指差して非難をしますが、それは他人の畑の麦を食べたことではなく、安息日にそれをしたということを問題としたのです。律法によれば安息日にはいかなる労働(麦を刈り取ることもそこに含まれる)もしてはならなかったからです。

それに対して、イエス様はダビデの時代にあった出来事と、律法を引用して反論します。イエス様は「律法などはいらない」と言って、反論したのではありません。むしろ「読んだことがないのか」と律法によって反論されます。律法をかたくなに守ることに固執するファリサイ派に対して、イエス様は律法がなんのためにあるのか、ということを大切にされたのです。律法、それはどれほど忠実に守れば人間が神に近づくか、というのを教えるのではなく、人間の惨めさを知らせるものです。神に造られたはずの人間が、どれほど神から離れているかを知らせるものです。その人間の状況を解決するのは、私たちがささげるいけにえではなく、神の憐れみによるほかありません。

「神殿よりも大きいもの」、イエス様自身と解釈する人もあります。イエス様にあらわされた福音そのものであろうと思います。この方のもとでのみ、私たちは律法から、そして律法が教える自らの惨めさから解放されるのです。

January 06, 2018

先週説教要旨 2018.1.7

先週説教要旨 2018年1月7日 

「生きるとはキリスト」池田慎平牧師

フィリピの信徒への手紙第1章20~26節

 

 フィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」と呼ばれます。他の福音書や手紙に比べても勝るほど、この手紙には使徒パウロの喜びが溢れているからです。では、パウロがこの時誰が見ても喜べる状況にあったかというとそうではありません。むしろパウロは宣教のために逮捕され投獄されており、しかもパウロが不在の間反対者たちが自分の利益のために宣教している話を耳にします。それはパウロにとっては苦しいことであったに違いありません。しかし、パウロは喜びます。

「どんなことにも恥をかかず」とあります。失敗をするとき、人間は恥をかきます。しかし、神を信じて歩む者は、恥をかかないのです。なぜなら、神は希望を希望のままではなく、それを必ず成就させてくださるからです。神の約束された救いに失敗はないのであります。パウロはそこに自分の生も死も委ねているのです。だから口実であろうと真実であろうと救いが宣べ伝えられることを喜ぶのです。

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。この言葉は高尚なキリスト者だけが語りうる言葉ではありません。誰もが洗礼によって自分に死に、私たちの内にキリストが生き始めたはずです。それは自分を大きくするところから解放されて、キリストが大きくなってくださる人生です。それが「わたしの身によってキリストがあがめられる」歩みです。

December 30, 2017

先週説教要旨 2017.12.31

先週説教要旨 2017年12月31日 

「皆様、今年もよく頑張りました」池田慎平牧師

マタイによる福音書第11章28~30節

 

「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。この年最後に与えられました御言葉は、主イエス・キリストが語られる招きの言葉です。それは休息への招きです。本当の休息への招待です。私があなたに休みを与えてあげる。イエス様はそう、私たちを招かれるのです。ある説教者はこの「来なさい」という言葉に、疲れた者たちを抱擁せんと腕を広げて待ち構える姿を見ています。私たちもこの一年、それぞれに歩み、また労苦した者として、主イエスのもとに来たいと思います。そこでこそ私たちは重荷を下ろすことができるのです。

この重荷とは一体何でしょうか。私たちにはそれぞれに重荷があります。けれども、ここでは具体的な重荷が言われているようです。イエス様は「わたしの軛(くびき)を負いなさい」と言われます。それはいま追っている荷に新しい荷を追加するということではありません。軛は、聖書では「律法に生きる」例えとして登場します。旧約に生きた人々は律法に生きることで、神と生きようとしました。しかし、それが重荷になることがあったのです。

しかし、イエス様はここで新しい軛を与えられます。イエス様の与える本当の休みとは、それまで付けていた軛を外して、イエス様の与える軛に付け替えて生きることです。その生き方は軽いのです。何度も繰り返される「わたし」(イエス様)にあって、たゆまず歩んでほしい、軽やかに生きてほしい。そのためにこの方は、どんなことでもしてくださるのです。

December 23, 2017

先週説教要旨 2017.12.24

先週説教要旨 2017年12月24日 

「御子に現れた父の愛」池田慎平牧師

マタイによる福音書第11章25~27節

 

クリスマス、この時私たちは高らかに賛美の歌を歌います。神のみわざを喜び、神が私たちに成し遂げてくださった救いのみわざをほめたたえるのです。それはクリスマスの出来事が、世界で最初のキリスト礼拝(賛美)であることにならっています。そして、このとき私たちは幼子イエス・キリストに目を留めつつ、この方を地上にお与えになった父なる神を見上げます。父なる神への賛美は、天使たちだけが歌ったのではありません。主イエス・キリストご自身がその人生をかけて歌った賛美であります。

本日の聖書箇所では、主イエス・キリストが私たちに先立って、父なる神をほめたたえておられます。しかし、これは「そのとき」と前から続く言葉の中にあります。「そのとき」何があったか。悔い改めない、親しく覚えていた街の名前を挙げながら、呻きの声を漏らしていたのです。しかし、それに続いてイエス様の口に上ったのは主への讃美でありました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。「天地の主である父」、この呼び名は実に恵み深い御名です。私たちが生きる世界を統べ治め、この私を造られ、私を呼ばれる神であります。御言葉を聴き入れない現実があってもなお、御心(好意)を抱いておられる神を見上げるイエス様が私たちをもその讃美へと招かれるのです。

私たちはイエス様を通して初めて、父なる神を知り、この方を父と呼びうるのです。クリスマスの喜び、それは私たちが天使たちと、そして主イエスと共に父をほめたたえる喜びです。

December 16, 2017

先週説教要旨 2017.12.17

先週説教要旨 2017年12月17日 

「新しい時代への道備え」池田慎平牧師

マタイによる福音書第11章7~24節

 

 待降節のこのとき、私たちはクリスマスのための準備や年末年始の準備で忙しく過ごします。そうしていると私たちがクリスマスへと向かっていく感じがしますが、しかしアドヴェントのとき、それは神が私たちに向かってくる出来事であるのです。神が私たちに向かって、この世界に飛び込んで来てくださる。その出来事を備えて待つのです。

イエス様が洗礼者ヨハネについて語る言葉を読みました。ここでは明らかにヨハネ以前、ヨハネ以後で時代が区切られています。その時代の区切りの中心におられるのが、ほかでもない主イエスです。ヨハネの偉大さ、それは救い主であるイエス・キリストを直接指し示す偉大さです。それはこれまで何人もの預言者が願ってもできなかったことでありました。それゆえにヨハネは「預言者以上」であり、そして最後の預言者であるのです。そして主イエスは、ヨハネ以後を生きる私たちを含む「天の国で最も小さな者」をヨハネよりも偉大な者として数えてくださいます。それは、イエス様との結び付きゆえです。今この時代、私たちはイエス様を指し示すだけではなく、イエス様と共に生きることができるのです。しかし、人々はイエス様が一所懸命に伝道された地においてでさえ、父なる神様の方を向こうとはしませんでした。それほどまで深く根付いた人間の罪に、イエス様の声にならないうめきが響きます。私たちはもう一度、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(四章十七節)という最初の言葉に聴きつつ、主を仰ぐのです。

December 09, 2017

先週説教要旨 2017.12.10

先週説教要旨 2017年12月10日 

「待つべき方は誰か」池田慎平牧師

マタイによる福音書第11章1~6節

 

「来るべき方はあなたですか。」

洗礼者ヨハネは、4つの福音書に共通して登場します。そして、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」(三章十一節)とイエス様が来られる方を指差して、その道を備えた人物です。そのヨハネが、なぜいまになってこのような問いを間接的にイエス様に投げかけたのでしょうか。そのことは長年議論をされて、様々な説が立てられました。ヨハネは独房の暗闇の中で、ついには主イエスに対する信仰を失ってしまったのだ、という人もあります。ヨハネの心の内はわかりません。しかし、ひとつ言えることは、投獄されて、自分の死を見つめている彼にとって、重大なことはただひとつであったのです。それは主イエスが来るべき方であるのかどうか。もう他の方を待たなくともよいのかどうかです。真剣な問いです。ヨハネはもうそのこと以外に興味はなかったのです。

そのヨハネの問いに、主イエスは確かな祝福をもってお答えくださいました。「わたしにつまずかない人は幸いである」。この「幸い」とは、山上の説教でイエス様が語られた「幸い」と同じ言葉です。「おめでとう」と訳してもよい言葉です。来るべき方である私に来てよかった、もう他の方を待つ必要がないのだ、おめでとう。イエス様はそのように祝福してくださいます。私たちはいま救い主のご降誕を待ち望む季節を過ごしています。私たちの喜ぶ声に勝って、主イエスご自身が誰よりも喜んでくださるのです。

December 02, 2017

先週説教要旨 2017.12.3

先週説教要旨 2017年12月3日 

「救い主を受け入れるとは」池田慎平牧師

マタイによる福音書第10章40~42節

 

42節では「受け入れる人」という言葉が、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」という言葉で言い換えられています。そこでは3つのことが言われています。「わたしの弟子だという理由で」、「この小さな者の一人に」、「冷たい水一杯でも飲ませる」。「この小さい者の一人に」という言葉で、私たちの教会ではクリスマスの時期にトルストイの物語「靴屋のマルチン」を読んだことを思い出す方もあるかもしれません。そこでは、キリストと一体とさせられている小さい者たちは、マルチンの目の前に現れる人々でありました。しかし、今日読んだ聖書箇所ではその立場が逆であるのです。小さい者の一人。それは主イエスに従う私たちのことである、というのです。わたしに親切にしてくれた。それがすなわちキリストに親切にしてくれたことと同じである、というのです。驚くべき言葉です。

「冷たい水一杯でも」とは、私たちに親切にしてくれる人ということです。その人は「報いを受ける」。それを「永遠の命を受ける」と訳す人もあります。私たちにはそれほどの価値があるのだ、というのです。その私たちを世界がどう扱うか、そのことが問われているのだと。世界へと送り出す前に弟子たちに送った言葉の締めくくりに、イエス様はそう言われるのです。キリストに従う者たちは、それほどまでにキリストと一体となっているのです。教会はそのようにキリストと一つとされた者の群れです。

November 25, 2017

先週説教要旨 2017.11.26

先週説教要旨 2017年11月26日 

「十字架に根差して」池田慎平牧師

マタイによる福音書第10章32~39節

 

ここに書かれている言葉は、とても悲しいことです。そして、残酷なことです。イエス様が言われたとは信じられないような言葉です。しかし、ある説教者はこれほどまで厳しい言葉は、イエス様以外にはお語りになれなかったろうと、イエス様の言葉であることを認めています。イエス様はキリスト者として生きる者が味わう厳しさも覚えながら弟子たちに向かわれるのです。

私もかつて、「剣」という言葉と、「平和」という言葉が逆なのではないか、と誤植を疑いました。しかし、イエス様を信じる、ということ。そこには剣がもたらされるということを私たちは聖書の中で知ります。何よりイエス様に向けられた剣を忘れてはなりません。

父や母を愛し、娘や息子を愛する者にとって、イエス様が口にされる「ふさわしくない」という言葉に目が行きがちですが、改めて読んでみると、「わたしよりも」という言葉があることに注意しなくてはなりません。そして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(三十九節)という言葉は、イエス様に来ることによって命を与えようとするイエス様の思いがあふれています。イエス様を誰よりも愛する、誰よりも信頼する、そのところにイエス様は永遠の命に至る道を開き、家族を新しく愛する道を開いてくださるのです。

November 18, 2017

先週説教要旨 2017.11.19

先週説教要旨 2017年11月19日 

「誰を恐れるべきか」池田慎平牧師

マタイによる福音書第10章24~31節

 

イエス様は弟子たちを派遣するにあたって、励ましの言葉を語られました。「恐れてはならない」と。この言葉は戒めの言葉ではありません。むしろ、私たちを常に恐れさせているものから私たちを切り離そうとするように、イエス様は何度も励ましの言葉をお語りになります。そして、恐れなくてもよい道として、「神を恐れること」へと私たちを招かれるのです。

神を恐れる、ということは神様に対してびくびくしながら生きる、ということではありません。もしそうであるとするなら、神の目が届かないところで、また罪を犯すでしょう。そうではなく、神を正しく恐れることをわたしたちは学ばなければならないのです。ある説教者は「臆病の罪」というのがあることを言います。それはすなわち、神の子とされたならもう恐れることはないのであるのだけれど、私たちはまた恐れることへと引き戻されてしまうと。それはもはや習い性のように、病のように私たちを捕らえて離さない。そして、神を恐れなく生きるとき、神以外のものに恐れなく生きることができるか、というとそうではない。むしろいろいろなものを恐れて生きるしか無くなるのです。

しかし、イエス様はここで神が神であることを改めて指し示すのです。神を恐れることは、他のどんなものも神に勝るものがない、ということを信じることです。神を恐れることによって他のものをも恐れない道が開かれるのです。だからこそ、イエス様はいまなお、恐れの中に囚われている者へ何度も語りかけるのです。

November 11, 2017

先週説教要旨 2017.11.12

先週説教要旨 2017年11月12日 

「言うべきことは教えられる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第10章16~23節

 

今日の聖書には、新共同訳では「迫害の予告」と小さな題が付されています。キリスト者として生きるとき、そこには必ず迫害があるというのです。イエス様は「私があなたがたを遣わす」と言われました。遣わされた者には、遣わした者の名が刻まれています。その名を人々が受け入れて信じるか、それを憎むかのふたつであって、御名を憎む者からは迫害を受けるというのです。しかし、この主イエスの言葉は私たちに対して苦しみを甘んじて受けよ、御名のためなら殉教せよ、と迫るのではありません。そうではなく、迫害は必ず起こる。しかし、そのなかで希望を持って生きる道を、励ましと慰めの言葉でもって示しておられるのです。

主イエスが語る希望。それは「人の子は来る」ということです。人の子とは、イエス・キリストのことです。いまは神に見捨てられたような、カオスのなかに陥ったようこの世界であるけれども、されど神は見捨てたまわないのです。人の子は来る、という約束の世界に私たちを生かしてくださる。ある聖書学者は、「人の子は来る」とはすでにこの世にあって起こり始めている、と言います。たとえば使徒パウロはかつてキリスト教徒を迫害する青年でありました。自分自身もキリスト教徒を殺戮しようと息巻いて出かけた先で復活の主イエスに出会ったのです。彼はそこで回心して、キリストを宣べ伝える者になりました。小さいところで、すでに「キリストが来る」出来事が起こっているのです。私たちは「すでに」と「いまだ」の間で、希望の言葉が与えられるのです。

November 04, 2017

先週説教要旨 2017.11.5

先週説教要旨 2017年11月5日 

召天者記念礼拝「平和の言葉を携えて」池田慎平牧師

マタイによる福音書第10章5~15節

 

 弟子たちを宣教へと派遣される際に、イエス様が語られた言葉を読みました。弟子たちの宣教とは、何か新しいことを弟子たちが行うことを求められたのではありません。「天の国は近づいた」ことを宣べ伝えること、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」とあるのは、他でもない主イエスご自身が行われたことです。主がなさったことを弟子たちもまたなぞるように、派遣された地で行うことを求められたのです。ですから、派遣された者は一人で派遣されるのではありません。いつでも、イエス様の足跡を踏む思いで、イエス様の言葉に包まれながら歩むのです。

「平和があるように」。この言葉もまた復活の主イエスが弟子たちにお語りになった挨拶の言葉でした。原文には「平和」という言葉は用いられてはおりません。「挨拶するように」という言葉だけですが、イエス様が歩まれた地の挨拶の言葉は「シャローム」(平和があるように)です。互いに平和を贈り合う言葉が挨拶の言葉であるのです。

この平和の言葉は、復活のイエス様が口にされました。「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ルカ二十四章三十六節)。イエス様が十字架と復活によって果たしてくださった平和は、神との永遠の平和です。

これは死によっても破壊されることのない平和です。主の口から出た、この平和の言葉が今日も私たちを包んでいます。

October 28, 2017

先週説教要旨 2017.10.29

先週説教要旨 2017年10月29日 

宗教改革500周年記念礼拝「本当の自由」池田慎平牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ第7章17~24節

 

 本日は、主の日の礼拝を宗教改革500年記念礼拝として捧げます。500年前の1517年10月31日に、修道士ルターが当時の教会に対して否を突き付けたことから、具体的な宗教改革の出来事が始まったとされています。しかし、ルターは何か社会的に革命を起こそうと思ったのではありません。そうではなくて、聖書をよく読んだのです。そして、聖書に書かれている救いに目が開かれたのです。ここに書かれていることこそ、救いであると。すなわち、罪赦されて、義と認められる(救われる)ことは、人間の側から善行や功績によって起こることではなく、神の側からのまったくの恩恵として与えられるものだ、ということです。そして、私たちはそれを信じて受け入れることによって義とされる(信仰義認)のだということです。

今日の聖書には、「召された」という言葉が繰り返されています。これは呼び出された、ということです。呼び出したのは誰か。神様です。私たちは自覚するかしないかに関わらず、神様に呼ばれ、いま共に礼拝する民となったのです。他でもない、神に召された私たちは、この方が私たちの罪にも死にも打ち勝たれる方であることをキリストにおいて証されています。私たちはもうそのいずれにおいても、奴隷ではないのです。現実において、たとえ誰かに仕える身であったとしても、キリストにおいて私は自由にされた者なのです。本当の自由をすっかり忘れてしまう私たちに、パウロは「神の前にとどまっていなさい」と語るのです。

October 21, 2017

先週説教要旨 2017.10.22

先週説教要旨 2017年10月22日 

「働き手を必要とされる神」池田慎平牧師

マタイによる福音書第10章1~4節

 

 イエス様が後に使徒と呼ばれる十二人の弟子たちを召された出来事を読みました。イエス様は思いつきで彼らを選ばれたわけではありません。祈って、祈って、徹夜の祈りのうちに彼らを選ばれたのです(ルカによる福音書第六章十二節)。そして主イエスは、完成された人々を召したわけでもありません。選ばれた弟子たちは、実に多種多様な人々でした。父親の名前以外で肩書きの付いている弟子は、三人います。「徴税人のマタイ」、「熱心党のシモン」、「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」です。「徴税人」と「熱心党」の人々はまったく逆の人間です。徴税人は当時のユダヤ社会を征服していたローマに納める税を徴収し、さらには上乗せして自分の懐に入れていた、ユダヤ人の目から見れば裏切り者であり、罪人です。かたや熱心党は、ユダヤの超愛国者であり、革命者としてのメシアを待ち望み、ローマから国を取り戻すためには暴力も辞さない人々でした。それぞれにイエス様の見方も異なる人々です。主イエスはそのような真逆の人をご自分の共同体を形成するメンバーとしてお召しになったのです。

すなわち、主イエスの弟子集団とは、イエス様がおられなければ、一緒にいることのありえない人々であるのです。またイエス様を裏切る者が初めからそこにいたことも驚きです。むしろ、逮捕されたときにはすべての弟子がイエス様を見捨てて、散り散りになって逃げていきました。未完成の群れを、イエス様は必要とされ、権能を与えて「小さなキリスト」としてくださったのです。

October 14, 2017

先週説教要旨 2017.10.15

先週説教要旨 2017年10月15日 

「憐れみのリーダーシップ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第9章35~38節

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。イエス様が公に伝道された出来事がここに要約されています。マタイが記す山上の説教から始まる御言葉と癒しの業は、ひとまずここで一区切りされていると言えます。そして、ここでイエス様がご覧になった人々の姿が明らかにされています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。「群衆」とはイエス様が癒された病人たちのことではありません。イエス様を取り囲んでいる全ての人々が、自覚するしないにかかわらず「弱り果て、打ちひしがれている」姿を、福音を語るまなざしの中で見抜かれていったのです。「飼い主のいない羊」は異常な、そして惨めな姿です。羊は一頭だけでは生きていくことが出来ないからです。飼い主がいなければ、誰も水辺へと伴ってくれる人がいません。草のあるところへと導いてくれる人もおりません。自分に襲いかかってくる敵をなぎ払ってくれる者もおりません。弱り果て、打ちひしがれるしかないのです。

 しかし、主イエスはこれらの人々を深く憐れまれます。深く憐れむ、とは人々が抱える痛みをご自分のはらわたでもってそれを共にするということです。そして、私たちを本当の意味で憐れんでくださるこの方が、私たちの主となってくださるのです。そして、この方が私たちと共に祈ってくださるのです。

October 07, 2017

先週説教要旨 2017.10.8

先週説教要旨 2017年10月8日 

「ダビデの子よ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第9章27~34節

 

 イエス様は私たちの先頭をずんずんと進み行かれます。山上で御言葉を語られたイエス様は、山を下りて人々をいやす歩みを始められました。山から谷へと水が流れるように、主イエスの御言葉が成就し、力をもって働く歩みであります。弟子たちは、そして私たちはまっすぐに進み行かれる主イエスを信頼して従いゆくのみです。

イエス様は二人の盲人と出会いました。彼らはイエス様に「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらついてきました。憐れんでください、とは自分の人生を根本から変えることを望む言葉です。イエス様は彼らの家にお入りになって、「わたしにできると信じるのか。」と問います。「ダビデの子」という呼び名は、イスラエルをローマ帝国の支配から武力で解放してくれる政治的なリーダーとしての意味と、神から与えられた救世主(メシア)としての意味が与えられていました。イエス様は前者のようにではなく、すべての人に仕える神の子として、メシアとしてお生まれになった方です。ここでイエス様が問われるのは、彼らがそのことをどこまで受け入れて信じているかであります。彼らはその問いに、ただ一言「はい、主よ」と答えました。イエス様にすべてを投げ出すことができたのです。イエス様はその答えを信仰と受け止めてくださいました。

イエス様は、私たちにも問われます。「わたしにできると信じるのか」。答える機会を与えてくださるのです。

September 30, 2017

先週説教要旨 2017.10.1

先週説教要旨 2017年10月1日 

「一人ひとりへの奇跡」池田慎平牧師

マタイによる福音書第9章18~26節

 

 主イエスが話しておられるときに、突然飛び込んできた人がありました。それはある指導者でありました。彼は自分の娘がたったいま死んだこと、そして主イエスに「手を置いて」いただいたら娘は生き返るとひれ伏して懇願します。主イエスはすぐに立ち上がり、弟子たちと共に彼の後についていきました。その道中、十二年間長血の病を患っていた女性がすがりつくような思いでイエス様の服に触れました。自分ではどうにもならない、しかし「主イエスに触れさえすれば」そう思ったのです。本日与えられた聖書の箇所には、イエス様にいま直面している危機から救い出していただきたい、そう願う二人が主イエスと出会う物語です。

 主イエスはそのどちらの危機をも共にしてくださいました。そして、振り向いて女性に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その時、彼女の病はいやされたのです。女性はイエス様のことを何ひとつ知りませんでした。しかし、この方ならと一縷の望みをかけて信じた。その小さく確かな思いを主は信仰として受け止めてくださったのです。

 そして、主イエスはある指導者の家に着き、集まっている人々に「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。その言葉を聞いて、人々はあざ笑いました。それはこの死に対抗できる者などいない、という敗北の笑いでした。私たちも現実があまりにも厳しい時、「いやいや、それはイエス様でも・・・」と苦笑いをしてしまわないでしょうか。しかし、イエス様はお言葉をかけ、触れることによって新しい道を開かれるのです。

September 23, 2017

先週説教要旨 2017.9.24

先週説教要旨 2017年9月24日 

「古いものと新しいもの」池田慎平牧師

マタイによる福音書第9章14~17節

 

 津示路教会は、教会創立50周年を迎え、先週それを感謝の内に祝い、新しい一歩を踏み出しました。この教会が教会として最初の礼拝で開かれた聖書箇所は使徒言行録、当時は使徒行伝と呼ばれた聖書の第1章3~5節から、「キリストは生きている」と題して説教が語られました。「キリストが生きて働いておられる!」この宣言からこの地に新たな教会が生まれたのです。そして、この宣言は今日でも私たちは日曜日ごとに宣言されているのです。キリストがこの教会の頭として、今も生きて働いておられる。牧師が変わり、教会を形作る人は変わってもなお、主はこの教会の頭でいてくださいます。そして、いつも新鮮に私たちと出会ってくださるのであります。

今日の聖書箇所にはいろいろな情報が与えられていますが、ひとつの主題は新しいものを迎える、ということであろうと思います。その新しさとは何かと言えば、福音の持つ新しさでしょう。これは決して古びることがないのです。そして、その新しさはひとつのつまずきを与えます。なぜなら、それまでの常識とは異なる出来事を提供するからです。ファリサイ派の人々、そしてヨハネの弟子たちも主イエスにつまずきました。主イエスが開かれた罪からの救いの道が、それまでの道とはまったく異なっていたからです。ここで問われている断食とは、悔い改めのしるしでした。しかし、主イエスは悔い改めを喜びへと変えてしまわれたのです。それは自分の善き生活の延長線上にある悔い改めではなく、主イエスと出会うことで始まる喜びの悔い改めであるのです。

September 16, 2017

先週説教要旨 2017.9.17

先週説教要旨 2017年9月17日 創立50周年記念礼拝

「人ではなくキリストにつながる賛美」加藤幹夫牧師

詩編書第150編1~6節 

ローマの信徒への手紙第8章38、39節

今日は津示路教会の50周年の記念の日です。この50年間、人と人との関わりのなかで、この教会に結び付いた方も見えると思いますし、あるいはその人と人との関わりのなかで傷ついていった歴史もあったかもしれません。しかし、私たちはこの人と人との関わりの中に、主イエス・キリストとの関わりというものを見る。だから、信仰が生まれます。そしてこの50年は、過去の歴史だけでなくて、キリストによってこれからの五〇年、さらには永遠の時を刻んでいくことが出来ます。そうすると大事なことは、「本当にキリストと出会えるか」ということにかかっています。どんなときにもキリストに望みを置いている教会かどうかが問われている。そういう時代を私たちは今生きています。

詩編の半数以上は「嘆きの祈り」です。しかし、その嘆きの中で主をほめたたえています。それは今の自分から目を移して、主を見上げてみるのです。たとえ嘆きの中、涙の中にあっても、あるいは苦しみが解決しなくても、目を主に向ける。それが、実はいま私たちが50年捧げ続けてきた礼拝の時と言ってもいいかもしれません。嬉しいから主をほめたたえているのではありません。自分にいいことがあったから賛美をささげているのではないのです。苦しみの中で主の力強い御業を、大きな御力を見つめる。

パウロもまたこの世に負けない御力を持った主を賛美します。キリストによって示された神の愛を、ほめたたえる。この方がおられるから、私たちは絶望せずに賛美をすることができるのです。

(要約文責:池田慎平)

September 02, 2017

先週説教要旨 2017.9.3

先週説教要旨 2017年9月3日

「イエスとは何者か」池田慎平牧師

マタイによる福音書第9章1~8節

 

 「イエス様とは何者か?」。その問いは教会の歴史の中で何度となく問われ、確認されてきた問いです。教会はいつでもその問いに答えなくてはならないと思います。人が神になったのでも、本当は実体のないお身体で地上を歩まれていたのでもありません。神が人となり、この地上に来られた。それがイエス・キリストであります。そしてそれは物見遊山で地上に来られたのではなく、私たちを救うために来られたのです。

今日の聖書箇所は、マルコにもルカにも記されている出来事です。マタイは屋根を破って病気の友人を吊り下げた信仰深い人々にスポットが当てるのではなく、イエス様のこの御言葉を中心に置きます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」。ユダヤ社会では病気は本人の、または家族の罪のためと思われていました。それは私たちにもある思いなのではないでしょうか。罰が当たった、行いが良くなかったから。しかし、イエス様はここで病と罪との繋がりを肯定されたわけではありません。そうではなく、病というだけで、人々から罪人として見られ、誰よりも自分の罪を思わずにはおれないその人に、罪から解放する言葉をお語りになったのです。ですから、この言葉は病人だけでなく、すべての人に語られる言葉です。罪を意識するしないに関わらず、私たちはいずれも神に背を向けた罪人であるからです。

律法学者が主イエス・キリストを見損ない、心の中で非難する思いを主イエス・キリストは見抜かれました。私たちは聖霊に導かれて、この方の権威を正しく畏れる者でありたいのです。

August 26, 2017

先週説教要旨 2017.8.27

先週説教要旨 2017年8月27日

「悪霊を追い出すイエス」池田慎平牧師

マタイによる福音書第8章28~34節

 

一読するだけでは解釈に困り、複雑な思いになる出来事であるかもしれない。しかし、ここには主イエスが来られたことの大事な意味があったことを、今日は聴き取りたいと願います。

主イエスは湖を渡ってガダラ人の住む異教の地に行かれました。弟子たちも嵐に見舞われながら、それに従います。しかし、彼らを出迎えたのは、その異教の地でも手が付けられなかった墓地に住む凶暴な者であった。弟子たちにとっては、一難去ってまた一難の思いではなかったか。しかし、主イエスはその彼らに向かってゆかれる。弟子たちはそれに従いゆくのみ。

「かまわないでくれ。」は向こうへ行ってください、離れてください、ということの意味。悪霊が主イエス・キリストを「神の子」と呼び、弟子たちの信仰告白にはるか先だって、悪霊が主イエス・キリストを自らの敵である「神の子」であると見抜いているのである。けれどもそれは、主イエスの正体を正しく見たのではありません。悪霊は主イエスを侮っていたので、豚の中に入って生き延びようとします。しかし、主イエスが「行け」と言われた言葉はそのまま悪霊に対する死刑宣告となりました。悪霊は豚もろとも水に沈んで滅んでしまったのです。

悪霊を追い出しただけではない。悪霊を滅ぼし、悪霊に打ち勝った。私たちが自分ではどうすることもできず、遠回りするしかなかったものに、私たち自身では抗えないものに、主は勝ってくださった。主が来られたのは勝利するためであったのです。

August 19, 2017

先週説教要旨 2017.8.20

先週説教要旨 2017年8月20日

「嵐を静めるイエス」池田慎平牧師

マタイによる福音書第8章23~27節

 

洗礼を受けたからと言って、キリスト者の歩みがいつも順風満帆かというとそうではないということを少なからず身をもって知っているキリスト者も多いのではないかと思います。キリスト者になる、ということは、すべてがうまくいくことを保証されるのではなく、たとえ嵐の中でもイエス・キリストが共にいてくださることで安心して乗り越えられることを知ることです。

イエス様が共におられる、それは私たちの舟に、お守りがわりにイエス様をお乗せするということではありません。イエス様が「行こう」と命じられ、出航する舟に私たちが招かれたのです。イエス様と私たちとは運命共同体です。しかし、嵐が襲ってきたとき、弟子たちは恐れ、慌てふためきました。そして、眠っておられるイエス様を見つけ、叫んだのです。「主よ、助けてください。私たちは溺れそうです」。溺れそうです、は滅びそうですという意味でもあります。これは初代教会の最も短い信仰告白の言葉dと考えられるそうです。不信仰な言葉です。現に弟子たちも「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われてしまいます。しかし、イエス様は決して信仰なき者よとは言われません。私たちの、イエス様にすがるしかない、小さな信仰を信仰として受け入れてくださるのです。

舟で眠っておられたイエス様の眠りは、私たちに安心を与えます。イエス様は私たちが揺さぶられてしまう嵐の中でも、落ち着き平安を貫いておられるからです。まだ大丈夫、私がそれを静める、と。この船の船頭は、神の権威を持たれたイエス様なのです。

August 12, 2017

先週説教要旨 2017,8,13

先週説教要旨 2017年8月13日

「キリストに従う覚悟」池田慎平牧師

マタイによる福音書第8章18~22節

 

山上の説教から続いて、イエス様に従うこととは、イエス様の弟子になるとは、という主題が続いています。そして、教師の聖書箇所には「弟子の覚悟」という小題が付いているように、ここにもまた主イエスの弟子としての姿が現れてきます。 

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(20節)。律法学者の覚悟にお答えになったイエス様のお言葉は、私たちを戸惑わせるものであったかもしれません。主イエスの弟子になるとは、主イエスに従う者になるとは、自分の家を失うようになってしまうのか、特殊な生活をしなくてはならないのか、そんな風に思ってしまうかもしれません。しかし、この言葉は何か私たちを特殊な生活へと招くものではありません。山上の説教でイエス様が何度となく「思い煩うな」と言われたのは、私たちがたとえ家を持っていようと思い煩う者であることを知っておられたからです。イエス様は人の子として、不安で夜も眠れない、寄るべなき者と生活を共にしてくださるのです。

ある英語の聖書を読むと、「弟子の覚悟」という小題は「弟子のコスト」と読める言葉で書いてありました。私たちは何か新しいことをしようとするとき、どれほどのコストがかかるのかを計算し始めます。それは生活をしていくのに当たり前のことです。

しかし、あらためて聖書を読むとき、誰よりも覚悟をされ、誰よりも代価を支払ったのは、私たちではなく主であることに気が付かされます。神の子である方がどれほどの覚悟を持って、私たちと生活を共にされ、私たちのために十字架におかかりになったか。

August 05, 2017

先週説教要旨 2017.8.6

先週説教要旨 2017年8月6日

「病を負われる主イエス」池田慎平牧師

マタイによる福音書第8章14~17節

 

 主イエスの癒しは弟子たちの家族にも及びました。「ペテロの家」「しゅうとめ」と書かれているように、ペトロには家があり、そして結婚した家族がありました。すべてを捨てて、主イエスに従ったペトロが、その家に帰って来たのです。誰よりも主イエスがそれに先立って歩まれました。そして、熱で苦しむペトロの義母を「御覧に」なり、「その手に触」れられました。そのようにして、弟子の家族と出会ってくださったのです。

ペトロの家にはほかにも多くの人がイエス様に癒していただくために、病人を連れてきたと書かれています。愛する家族が、愛する友人がそれをしたのかもしれません。愛する者が抱える痛みを、苦しみを、病から来る心細さを、どれほど自分も代わりに負えたらと願ったことでしょう。しかし、自分ではそれは叶わない。だが、この方なら。そんな思いでイエス様のもとへと連れて行ったのではないでしょうか。

「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」(17節)

イエス様は、私たちが一人で抱えきれないものを共に担ってくださる方です。そのために、私たちへのもとへと来てくださったお方です。私たちの傍らで、共に重荷を担ってくださる。私たちに本当の休みを与えてくださるのです。「疲れた者、重荷を負う者は私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。」今日はそのように主イエスが招かれる聖餐の食卓を祝う日です。

July 29, 2017

先週説教要旨 2017.7.30

先週説教要旨 7月23日

  「主イエスの権威の下で」池田慎平牧師

        マタイによる福音書第8章5~13節

 

 第8章からはイエス様が病を癒される奇跡の物語が語られます。ここで出会われたのは、ローマの百人隊長でありました。病気で苦しんでいる僕のために、イエス様の前に一歩進み出るのです。イエス様は、神を信じるユダヤ人から見れば、神を知らない異邦人であるこの百人隊長の言葉の中に、「これほどの信仰を見たことがない」というほどの信仰を見出しました。そして、真剣にその信仰にお応えになったのです。「信じる」「信仰」という言葉は、マタイにおいて第8章から初めて登場します。ここから始まるのは、主イエスによる信仰発見の物語でもあるのです。

百人隊長がここで求めるのは、イエス様のお一言です。彼にはふだん権威のもとに生きており、また自分にも権威が与えられている者としての、権威に対する畏れが見えます。権威とは、力のことです。百人隊長として部下に命令をするのです。部下は彼の言葉に命を懸けて従います。そのような権威を与えられている者として、言葉の持つ力について人一倍思うところがあったのかもしれません。そして、いま真の権威をお持ちである主イエスの前で、訴えるのです。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(8節)。神の権威を持っておられるあなたが、一言おっしゃってくだされば、それでよいのです。そう言って、百人隊長は主イエスの権威のもとに立ちます。それが信じるということです。

聖書はその始まりから、神の言葉の権威を証しています。今私たちにも御言葉によって新しい出来事を起こして下さるのです。

July 22, 2017

先週説教要旨 2017.7.23

先週説教要旨 2017年7月23日

  「主イエスの権威の下で」池田慎平牧師

        マタイによる福音書第8章5~13節

 

 第八章からはイエス様が病を癒される奇跡の物語が語られます。ここで出会われたのは、ローマの百人隊長でありました。病気で苦しんでいる僕のために、イエス様の前に一歩進み出るのです。イエス様は、神を信じるユダヤ人から見れば、神を知らない異邦人であるこの百人隊長の言葉の中に、「これほどの信仰を見たことがない」というほどの信仰を見出しました。そして、真剣にその信仰にお応えになったのです。「信じる」「信仰」という言葉は、マタイにおいて第8章から初めて登場します。ここから始まるのは、主イエスによる信仰発見の物語でもあるのです。

百人隊長がここで求めるのは、イエス様のお一言です。彼にはふだん権威のもとに生きており、また自分にも権威が与えられている者としての、権威に対する畏れが見えます。権威とは、力のことです。百人隊長として部下に命令をするのです。部下は彼の言葉に命を懸けて従います。そのような権威を与えられている者として、言葉の持つ力について人一倍思うところがあったのかもしれません。そして、いま真の権威をお持ちである主イエスの前で、訴えるのです。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(8節)。神の権威を持っておられるあなたが、一言おっしゃってくだされば、それでよいのです。そう言って、百人隊長は主イエスの権威のもとに立つのです。そこに立つのです。それが信じるということです。

聖書はその始まりから、神の言葉の権威を証しています。今私たちにも御言葉によって新しい出来事を起こして下さるのです。

July 15, 2017

先週説教要旨 2017.7.16

先週説教要旨 7月16日

 「手を差し伸べて」池田慎平牧師

        マタイによる福音書第8章1~4節

山上の説教を語り終えた主イエスは、山から降りていきます。
御言葉から始まり、そして人々の生活の中へと入っていかれるのです。
山から降りたそのところで、主イエスに一人の人が近づいてきました。かつては「らい病」と訳された重い皮膚病を患った人です。
「イエスに近寄り」(2節)。彼はイエス様に向かって大胆に一歩進み出ます。
彼らは健康な人に近寄ることが律法で禁止されていた人々です。町の中に住むことも許されなかった。だから、町の外で一番に主イエスに会うことができました。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2節)という言葉もまた大胆な言葉です。「御心ならば」という言葉は、原文のギリシャ語をそのまま訳すと、「あなたが欲しさえすれば、御意志すれば」という言葉です。あとはあなたが御意志くださるだけです、と。そして、主イエスならそれを御意志くださると。できればお願いします、というのでなく、あなたならできます、と主イエスの可能性に全てを賭けているのです。
主イエスはその大胆さに、さらなる大胆さを持ってお応えになります。「よろしい。清くなれ。」この「よろしい」とは、「わたしは欲する、意志する」という言葉です。すなわちこの病人の言葉にまっすぐにお応えになったのです。そして、主イエスは彼に手を差し伸べて、彼に触れました。このことがどれほど大胆なことかは当時の重い皮膚病を患っていた人々が町の外に隔離されていたことからもわかるかと思います。自分は汚れたものだ、と叫びながら人々から距離を取らなくてはならなかったこの人に主イエスは近寄り、手を触れられた。その人が負ってきた傷を癒すように。この人にはそうしなければ癒されない傷があったのです。
主イエスは信仰の持つ大胆さに、さらなる大胆さを持って応えてくださるお方です。私たちも群衆の中から大胆に主に一歩進み出たいのです。

July 08, 2017

先週説教要旨 2017.7.9

先週説教要旨 7月9日(三重地区交換講壇)

 「生涯のささげもの」三坂幸英牧師(鵜方教会)

        コリントの信徒への手紙二 第8章1~15節

 

 今日の聖書から「人生は分かち合いにより豊かになる・幸せになる」を考えてみたいと思います。ところがそうならないことが起こるのです。

マケドニア州にフィリピ、テサロニケ、べレヤなどの教会があり「激しい試練」(2節)にあったけど「信仰の喜び」のゆえに、貧しいけれど「人に惜しまず施す豊かさになった」と記しています。ところがコリント教会は「去年から他に先がけて実行したばかりでなく」(10節)「進んで実行しようと思って」(11節)いましたが「エルサレムの人々はあまり絶望的でないよ。我々が苦しい時、エルサレムの人々は助けてくれるだろうか。」と言って反対運動が起こったのです。教区の互助制度を見ても立場によって温度差を感じます。鵜方教会の体験です。会堂建設の時、外部献金1000万円以上の献金をいただきました。一度もお会いしたことのない個人、小さな教会からも沢山いただいたのです。

 そこでささげものについて考えたいのです。讃美歌121番〈…貧しき憂い、生きる悩み、つぶさになめし、この人を見よ〉

天において豊かな神の子イエスが地上に送られ、貧しくなった犠牲を思い出し、コリントの教会に新たに努力をさせようとするのです。新しい絆をいただくことをマルコによる福音書10章29~30節で語っています。永遠の命をいただいているのです。ささげものの考え方を、感情的にとらえた時、悲劇が生まれるのです。カインのささげものにおいて、アナニアとサフィラにおいての悲劇です。だから「主の貧しさによって、…豊かになる」(9節)を考えたいのです。

July 01, 2017

先週説教要旨 2017.7.2

先週説教要旨 7月2日

「岩の上に家を建てる人」池田慎平牧師

マタイによる福音書第7章24~29節

 

 今朝共に開きましたマタイによる福音書において、主イエスは山上の説教のその最後の最後に「土台」の話をいたします。土台もまた建築物が建っているときにはその土台を見ることはできません。土台は地中にあるものだからです。岩を土台としていても、砂を土台としていても、それはどちらであるのか建物を見ただけではわからない。けれどもそれは、嵐のときにわかるというのです。

 ここでは「聞いて行う」と「聞いても行わない」が比較されていることから、良い業を「行う」ことをしない者への非難の言葉のようにも聞こえます。しかし、これが単純に行うか、行わないかの議論でないことは、十五~二十三節の主イエスの言葉からも明らかです。どちらも聞いて行っている(家を建てている)のですが、その土台が問題となります。砂、に言い表される土台は人間の業ではないかという理解があります。なぜなら、ひとたび嵐が来るとそれは流れ、その上にあった家は流されてしまうからです。私たちに与えられる最大の嵐(試練)は、死であると言えます。死によって、私たちは自分で積み上げたもの、誇りとしてきた自分を失ってしまいます。誰も地上で蓄えたものを天へと持ちえないからです。しかし、岩の上に建てた家は違います。それは死によっても決して流されることのない土台です。岩とは何か、山上の説教を改めて読むと知らされる、天の父なる神に愛されているという事実です。これは、天地がひっくり返ろうと、すべてを失ってしまおうとも変わることのない土台であるのです。

June 24, 2017

先週説教要旨 2017.6.25

先週説教要旨 6月25日 

「良い実を結ぶ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第7章15~23節

 

今日の聖書箇所で何より気にかかる言葉は、「にせ預言者」という言葉です。イエス様は、この「にせ預言者に警戒しなさい」そう注意を促します。しっかり目を覚まして、見開いて、その真贋をよく見極めなさい、というのです。なぜにせ預言者を警戒しなければならないか、それは彼らは羊(信仰者)の顔をした狼で、神のものであるはずの者を自分のものにしようと、神の道を歩む者を大きくて広い滅びの道へと誘おうと狙っているからです。

にせ預言者はどこで判別しうるのでしょうか。それは御心を行うか、というところで判別されるとイエス様は言います。しかし、「御心を行う」というところで、それを主の御名を口にしながら、行わない者、すなわち行うか行わないかというところで判別されるわけではないことを誤解してはなりません。にせ預言者も行動しているのです。

行うか、行わないかではなく、御心に聞き従っているか、が問われます。信仰者も、それに混じっているにせ預言者も、そのままでいられません。実を結ぶ時が来るのです。そのとき、悪い木は悪い実を結び、良い木は良い実を結ぶ。誰にでもにせ預言者となって滅びへと隣人を誘う素質を持ち得ているのです。だから、主イエスは目を覚まして警戒しなさいと言われます。御言葉において私たちが自己吟味するのは、私が私という根っこの木に繋がっているのか、イエス様という木に繋がっているのか、ということです。イエス様につながること、イエス様の言葉に従って生きること、それこそ私たちが良い実を結ぶ秘訣なのです。

June 17, 2017

先週説教要旨 2017.6.18

先週説教要旨 6月18日 

「狭い門から入りなさい」池田慎平牧師

マタイによる福音書第7章13、14節

 

 「狭い門から入りなさい」、この言葉もまた「豚に真珠」と同じくらい聖書の言葉がもととなった慣用句になっている言葉です。「狭い門」とは受験や就職活動、資格試験など入りたくとも入れない場合に用いられます。しかし、イエス様がここでお話されている「狭き門」は、「それを見いだす者は少ない」(十四節)、すなわち誰も入ろうとしない門であるのです。

誰も入ろうとしない門、それは主イエスがその十字架の死にって開いてくださった命の門です。主イエスが神に仕えた道、そして私たちが主イエスに従う信仰の道であります。

 キリストが私たちに先立って、この狭い道を歩んで行ってくださいました。だから、私たちは誰も行こうとしないこの道を進むことが出来るのです。この道の狭さ、それはどのくらいの狭さかわかりませんが、私は人が一人でしか通れない道であろうと思います。そこを家族や仲間と一緒に通るわけにはいかないのです。洗礼を受けた時のことを思い出すと、私たちはそれぞれがイエス・キリストを主として、この方に従う道を歩みことを言い表すのです。誰かの助けを得て、導かれることもあるかもしれません。しかし、キリストの道を歩むときは一対一であるのです。そして、その道は教会へ結ばれ、共に御国へと繋がっていると信じます。私たちの教会の名前にも、「路」という名前が入っていますが、私たちは広々とした派手な道を示すのではないのです。主イエスが歩み抜いてくださった愚かであるけれども、命へと至る道を指し示し、私もまたそこを歩み続ける思いを新たにするのです。

June 10, 2017

先週説教要旨 2017.6.11

先週説教要旨 6月11日 

子どもと大人の合同礼拝「神さまの道」池田慎平牧師 

マタイによる福音書第7章12節

ルカによる福音書第23章32~34節

 先日、スーパーで買い物をしていたら、まだ五月の終わり頃でしたが、早くも七夕の飾りが準備されていて、「あなたのお願い事を短冊に書いてぶらさげよう!」みたいなことが書いてありました。まだあまり短冊はぶら下がってなかったですが、少し気になったので七夕にどんなことがお願いされているのか調べてみました。暮らしのこと、お金のこと、学校のこと、健康のこと、小さな願いから大きな願いが七夕に願われていました。

 私たちは自分たちの中にたくさんの願い事があることに気が付きます。そして少し乱暴ですが、それら小さな願いをひとまとめにするなら「幸せになりたい」という願いとなるのではないかと思います。幸せになりたい。けれど、私たちの幸せとは、いったい何でしょうか。今日は「人にしてもらいたいこと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というイエス様の言葉を読みました。この言葉の前でも、私たちは立ち止まるのではないでしょうか。「人にしてもらいたいこと」はいったい何だろうか。

 今朝はもう一か所聖書を開きました。十字架上で語られた「自分が何をしているのか知らないのです」というイエス様の言葉です。誰のことを言っているのでしょうか。イエス様を十字架につけた人々です。彼らは自分のしていることはきっとはっきりとわかっていたと思います。一人の犯罪人を磔にしている。しかし、神の独り子を刑に処していることを知っていたでしょうか。彼らの目は罪でふさがっており、そのことが分からなかったのです。

イエス様の十字架は、私たちの罪のためです。ですから、私たちも「自分が何をしているのか知らない」者です。私たちの目も、罪でふさがれています。自分ではそれをきれいにすることはできません。それどころか、自分の目が見えないということにも気が付いていないのです。「何をしているかわからない」状態です。それで正式な判断ができるでしょうか。「自分がしてほしいと思うこと」がわかるでしょうか。総督ピラトは民衆に尋ねました。「何を望むのか」民衆は答えます。「十字架につけろ」と叫んだのです。

しかし、主イエスはそのような見るべきものを見ない私たちをお赦しになりました。そして、「信仰」という新しい眼鏡を与えてくださったのです。私たちはイエス様が与えてくださる新しい眼鏡で、父なる神の姿を、そして神が私たちを取り戻すためにしてくださった御業をはっきりと見ることが出来るのです。赦しを受け入れ、信仰を手にするということは、物事をきちんと見ることが出来るということです。「自分がしてほしいと思うこと」がわかる。自分にとって何が本当に幸せであるかが、わかるのです。そして、何よりもそれを誰が与えてくださるかがわかるのです。

June 03, 2017

先週説教要旨 2017.6.4

先週説教要旨 6月4日 

「教会が生まれる」池田慎平牧師

創世記第11章1~9節

使徒言行録第2章1~13節

 

 本日はペンテコステ、すなわち弟子たちの集まる家に聖霊が降臨されたことから教会の働きが始まったことを記念する日です。ペンテコステとはユダヤ教の祝祭の名前でしたが、その日は神様が約束してくださった「助け主・慰め主」なる聖霊が降った日として新しい意味を与えられたのです。そして、教会も聖霊が与えられることによって、初めて教会としての歩みを始めたのです。

 ペンテコステの日に起こったことは、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(二節)「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(三節)とあるように、弟子たちを新しい出来事によって揺さぶり、焼き、新しい言葉で語り出す者とされた出来事です。そして、弟子たちはその場に集まってきた世界中から帰って来たユダヤ人に通じる言葉で話し始めたのです。しかもそれは適当に話し始めたのではなく、「神の偉大な業」、すなわち主イエス・キリストによって私たちを罪の中から救い出してくださった神の御業を語り始めたのです。

 教会の始まり、それは生まれた国や境遇が違っても、ひとつの共通言語を与えられたことから始まったのです。それはイエス・キリストの御名にあらわされる神の偉大な業です。聖霊なる神は、神が私たちのために何をしてくださったかを私たちに明らかにする助け主です。聖霊によらずして、神によらずして、イエス・キリストによらずして私たちは教会ではないのです。

May 27, 2017

先週説教要旨 2017.5.28

先週説教要旨 5月28日 

「だから、求めよう」池田慎平牧師

マタイによる福音書第7章7~12節

 

  「あきらめ」というのは、私たちの心にいとも簡単に染み込んできます。しかし、繰り返しイエス様が語ってこられたことは、神様が私たちに与えてくださる現実です。しかも、それは隠された現実です。山上の説教でイエス様が何をしておられるか、それは神が私たちに父なる神として贈ってくださる、主にある隠された現実を開いて見せてくださっている、ということです。

山上の説教で語られる世界、それは幻のような理想郷ではありません。あなた方が生きる現実のただなかで、それは起こるし、起こっているのだと。それをはっきりと見なくてはならない。それを見ようともしない罪があります。私自身が、贈られた宝物を宝物ともしないような、犬や豚のように扱ってしまう愚かさの中に生きている。それは私の欲しいものではない、欲しいものをよこせと飛びかかっていくような。神から贈られたものを、自分の罪で本当の人間としての生き方を覆い隠している。神が作った人間としての生き方を、望みを抱いて喜びに生きる人間としての姿を見失っている。しかし、主イエスは求めなさい、そう言われます。求めなさい、そうすれば与えられるから。私たちはこの主イエスの言葉に押し出されて求め続けるものであるのです。ここで言われていることは、キリスト者の基本姿勢であると私は思います。求め続ける。そういう意味で、私たちは絶えず求道者です。

私たちの罪によって隠されていた神の真実を、御言葉のうちに求める、探す、叩くことによって、新しく得ていく喜びがキリスト者にはあります。御言葉の井戸は、私たちの絶望やあきらめの深さよりも深く、そして汲んでも汲んでも枯れることなく深いのです。

May 20, 2017

先週説教要旨 2017.5.21

先週説教要旨 5月21日 

「豚に真珠は、聖書の言葉」池田慎平牧師

 マタイによる福音書第7章6節

 

  ことわざとしても知られる「豚に真珠」という言葉は、本日朗読された聖書の一節です。そこで犬、豚と呼ばれているのはある状態にある人々を例えている言葉であると言われます。それはもともとユダヤ人たちが神様を信じない人間、信仰を失ってしまった人間をそう呼んでいた、という背景があるようです。すなわち、与えられた聖なるものの価値を理解せず、足で踏みつけ、「欲しいものはこれじゃない」とかみついてくる姿です。イエス様はしかし、この言葉をある人種に用いようとしたのではありません。誰もがこうなる可能性をはらんでいる。そして、私たちは御言葉を伝道するとき、私たちの愛する者が御言葉に対してこのような状態になる悲しみも知っているのではないでしょうか。

 しかし、主イエスはここで、そういう私たちに対して語ります。そこで立ち止まれ、あなたがそれ以上行く必要はない。あなたが踏みにじられ、かみ裂かれる必要はない、と。力づくで人を救うことはできない。伝道には、御言葉には限界があるのだ、と。

 主イエスはユダヤ人に対してもローマ兵に対しても、一切抵抗されませんでした。彼らが神の子であるイエス様をどんなに踏みにじろうと、剣をもって立ち上がることをしませんでした。ご自身の弟子たちがそうしようとするのも、お許しにはなりませんでした。沈黙されたまま、踏みにじられ、その身を裂かれたのです。罪人たちの抵抗を甘んじてお受けになるこの弱さにこそ、いやこの弱い御言葉のみが、実は、罪人を心の底から悔い改めさせる、強い、神の憐みに満ちた御言葉であるのです。

May 13, 2017

先週説教要旨 2017.5.14

先週説教要旨 5月14日 

「はっきりと見るために」池田慎平牧師

マタイによる福音書第7章1~5節

 

 私たちの目は悪い。それは神に向き合ったときに初めてわかります。自分がいかに見るべきものを見ておらず、曲がりくねった自分の本性をもまるで真っすぐであるかのように見ていたかを。私たちの目の悪さを、主イエスはグロテスクに表現します。「あなたの目には丸太があるではないか」。目に丸太が突き刺さっているのです。目が悪い私が、人のおがくずを気にする。

 人は裁かれねばならない罪を抱えています。それが丸太と言われるものです。人の罪は問われなければならない。そうでなければ、私たちは自分も、そして神もはっきりと見ることができないからです。そして、神のみが私たちを正当に裁かれる裁き主です。しかし、神は私たちを裁くことによってではなく、主イエス・キリストを裁き、私たちの代わりに呪いの木にかけられるという仕方で、私たちの目の丸太を取り除いてくださいました。主イエスの十字架によって、自分の罪をはっきりと知り、はっきりと見ることへと導かれるのです。

自分の目に丸太があるのだから、他人の目にあるおがくずは放っておけばいいのではありません。丸太が取り除かれた人は、隣人をまっすぐに見ることが出来るようになって、隣人の目からおがくずを取り除いてやることが出来るのです。

 私たち教会は、はっきりと神を見たいのです。そのために十字架を見上げます。そして、もっとはっきりと見ていただきたいのです。共に見ることへと召されてほしいのです。

May 06, 2017

先週説教要旨 2017.5.7

先週説教要旨 5月7日 

「今日を生きる備え」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章25~34節

 

 「思い悩むことは何であるか、神につかないことである」。ある聖書学者はこのように言う。しかし、私たちの生活というのは思い悩むことと生きることを分け難く結びついているのではないか。しかし、聖書は言うのである。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(二十七節)。そして、それは食べ物のこと、着るもののことで思い悩むな、と言うのです。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(二十五節)。私たちが思い悩むことによって、思い煩うことによって損なっているものに今一度目を止めさせようとします。この命は、この体は、いったい誰が与えてくれたものであるのか。

 主イエスは、空の鳥、野の草と見よと言われます。彼らは与えられた命を、与えられた場所で、一生懸命に生きている。彼らは自由気ままに生きているわけではありません。生きる苦労をしつつ、与えられたもので生きる。明日のことを思い悩むことはしないにもかかわらず、しかしその命を、その体を神は輝かせてくださる。その日その日の苦労は誰もが負わなければなりません。しかし、今日を生きる美しさを、輝きを神は与えてくださるのです。

主イエスは三度も「思い悩むな」と言われます。それはいかに私たちが思い悩みに侵されやすいか、思い煩いによって自らの健やかさを脅かされるかをよくご存じであったからであろうと思います。主イエスもまた思い悩んだ、だからこそ思い悩みの恐ろしさを知っていたのです。主イエスが言われます、思い悩むな!

April 29, 2017

先週説教要旨 2017.4.30

先週説教要旨 4月30日 

「主はまことのぶどうの木」池田慎平牧師

ヨハネによる福音書第15章1~17節

 

 主イエスが弟子たちに語られた言葉を、私たちはそのまま受け取りたいと思います。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・あなたがたはその枝である」。主がわたしたちと繋がることをその喜びとしてくださる。そして、父なる神は天候が良い日も悪い日もぶどうの枝を気にかけ、日々お世話をしてくださる管理者である、と。これが、主イエスが十字架におかかりになる前に弟子たちに語られた言葉です。主イエスは十字架と復活によって、死とそれに従うすべての力に勝って、私たちと結び合ってくださった方です。

「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」という主イエスの言葉は、私たちに何を示すであろう。私たちはこの方を離れても、何でもすることが出来ることを知っているのです。しかし、主イエスはそれらの出来事が無に帰すことをはっきりと語られます。枝が枝だけで生きていくことは出来ないのです。寄せ集められて、薪にするしかないのです。

 教会は主イエス・キリストに繋がったぶどうの木です。私たちは友情で結び合っているのでも、血縁関係で結ばれているのでもないのです。主イエスがここにおられるからこそ、私たちは互いに教会として結び合っており、互いに愛し合うことが出来るのです。津示路教会はこのみ言葉を二〇一七年教会標語として、そして今年度の伝道方針の中心聖句として与えられました。教会としての揺さぶりを経験するとき、私たちは鏡よりも確かに、このみ言葉に帰って枝とされた自分を捕えなおすことが出来るのです。

April 22, 2017

先週説教要旨 2017.4.23

先週説教要旨 4月23日 

「心のあかりは天」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章19~24節

 

 「天に富を積みなさい」。これは私たちにもわかりやすい言い伝えに通じる御言葉でしょうか。たとえば「徳を積む」「お天道さんが見ている」など。そういった言葉は、ユダヤの言い伝えにもありました。「いいことを積み上げると、天で利息付きで返ってくる」。しかし、ここでイエス様が言おうとされたのはそういうことではありません。いいことを積み上げれば報いが来る、ということではなく、何を頼りに生きているかということを問われるのです。私たちは自分で積み上げたものによって救われるのではなく、天におられる方が与えてくださる恵みによって救われるからです。私たち自身を最終的には救い得ないものを頼りとしていないか、主イエスはそのことを問われるのです。

 何を頼りに生きているか、それは自分の主人として何を自分の人生にお迎えしているかということでもあります。主イエスは私たちの生活を否定されるわけではありませんが、限界のあるものを絶対化してしまうことに対して厳しくお語りになります。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」。それはお金だけではありません。身近な人がそこに座ることも、自分の仕事や価値観が居座ることもある。しかし、それらを与えてくださったのは神であり、出会わせてくださったのは神であります。」

二つのものに仕えようとするとき、その目は濁ると主イエスは言われます。「目が澄んでいる」は、「単純な目」という意味であるそうです。一つのものを見つめる目です。この目に主は光を灯してくださる。主によって私たちの心のあるところに、私たちの光源もあるのです。

April 15, 2017

先週説教要旨 2017.4.16

先週説教要旨 4月16日 

「あの方はここにはおられない」池田慎平牧師

マタイによる福音書第28章1~10節

主イエス・キリストは復活された。「かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」これは主イエスがかねて言われていた通り、という意味である。主イエス・キリストは真実を語られたのである。そして、父なる神もまた主イエスを復活させることによって真実を貫かれたのです。
主イエスの復活の場面は聖書においても隠されています。しかし、それは確かに起こったのです。マリアたちの前に現れた天使は、それをはっきりと示します。私たちではどうすることもできなかった墓を全く空しくすることによって、私たちの力では決して開けることのできなかった石の蓋を転ばしてしまうことによって、あるはずのものがあるべきところにないということをその目で見させることによって。あるはずべきものがあるべきところにない、ということは本来なら私たちを混乱させる出来事であるはずです。けれどもここでは、それは畏れを呼び起こし、喜びを呼び起こす出来事となったのです。
「恐れることはない」。天使も、そしてマリアたちに出会ってくださった復活の主イエスも、そう声をかけられました。それは二人をただ落ち着かせるためだけの言葉ではありません。本当に恐れる必要がなくなったのです。主イエスは死の象徴である墓から解き放たれて、私たちに会いに来られ、私たちを祝福してくださり、私たちの先頭に立たれて導いてくださるのです。私たちに勝ち目のなかったすべての諸力にこの方はその愛で打ち勝ってくださった。マリアたちはその喜びを墓にきた時と同じような重い足取りではなく、軽い足取りで弟子たちのところへ、この事実をまだ知らない者たちのところへ走って行ったのです。私たちの日曜日から始まる週の歩みも、このマリアたちの歩みと一緒です。復活の主イエスと御言葉の中でお会いし、躍り上がってそれぞれの生活へと派遣されていくのです。

April 08, 2017

先週説教要旨 2017.4.9

先週説教要旨 四月九日 

「本当にこの人は神の子」池田慎平牧師

マタイによる福音書第二七章四五~五六節

 

 イエス・キリストが十字架で死なれた出来事を、マタイによる福音書から聴いてみたいと思います。マタイは、イエス様が十字架上で死なれた時刻を記しています。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(四十五節)。被造物すべてが喪に服すように、真っ昼間であるのにも関わらず世界は暗闇に包まれたのです。クリスマスとは真逆のことがここで起こったのです。

十字架の前を通りかかった人々は、口々に「自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と叫びます。私たちの内には、自分を救える力がありながら自分を救わない、というようなことはないからです。私たちは私たちの力を、自分自身を救うために用いるのです。しかし、この方はそうはされなかった。すべての者が「自分を救え」と叫びをあげるなか、この方は決して十字架から降りようとはなされない。天の万軍を率いて、ローマの兵隊たちを蹴散らすこともなさらない。それどころか、この方は地上で経験する最も孤独な状態の中で死なれる。愛する者たちから見捨てられ、そして父なる神にまで見捨てられる。

この主イエス・キリストの惨めな死が私たちを救う。主イエスが息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。私たちの常識を超えて、私たちでは動かすことのできなかったものを打ち破って、この方は救いを実現してくださったのです。異邦人である百人隊長たちの口を通して証される。「本当に、この人は神の子だった」(五十四節)。私たちも十字架を通して証する。この方は永遠に神の子である、と。

April 01, 2017

先週説教要旨 2017.4.2

先週説教要旨 4月2日 

「悔い改めの姿勢」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章16~18節

 

 主イエスは、「人の前で善行をしないように」と語られるなかで、「施し」「祈り」「断食」の三つを挙げています。これは当時のユダヤ人社会で善行の代表的なものと言われているものでした。主イエスはそれらを奨励されているわけではありませんが、もしそれをするのであれば、と厳しくお語りになったのが、「偽善者たちがするようにするな」ということです。これは、「人の前で」はなく、「(隠れたことを見ておられる)神の前で」ということを覚えなさいということにつながります。

 断食は、悲しみ、嘆きの表現であります。その悲しみ嘆きとは、自分の罪に対する悲しみであり嘆きです。自分は神様の前に罪人である、神様の御心に背き、逆らっている者であるということを、心から悲しみ、嘆くのです。断食を常としない私たちも、この悔い改めの思いは引き継がねばなりません。けれども、この神に向かうはずの悔い改めのなかでも、「顔を見苦しくする」という偽善が起こってくるというのです。そのような傲慢にある者は、「人に見てもらう」という報いをすでに受けているのです。

 しかし、私たちの罪を赦すことができるのは、神のみであります。悔い改めをした人は、確かに変わるのです。悔い改めをしたけれど、前と同じようにというのはあり得ません。前と同じ態度でいられるはずはない。しかし、それは明るい形で現れるはずだ、というのです。なぜなら、私たちの罪を担って十字架で死なれた主イエスと出会っているからです。この方のもとには、罪赦された喜びがあります。だから、喜んで讃美を捧げるのです。

March 25, 2017

先週説教要旨 2017.3.26

先週説教要旨 3月26日 

「誘惑に遭わせず」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章13節

 

 ここには二つの祈りがあるようにも読めます。マタイによる福音書で「誘惑」と書かれている言葉は、私たちは「試み」と訳して祈っています。どちらにも訳すことの出来る言葉であるのです。誘惑も試練も、どちらも私たちを主イエス・キリストから引き離そうとする誘惑であり、試練であるのです。ひとつは、主がおられなくともやっていけると思わせること、もうひとつは主がいてもどうしようもならないと思わせる仕方で誘惑者は私たちを誘い、試みるのです。

このような誘惑、試練の前で子の祈りは、「助けてください」との祈りです。何かよくわからないものに向かって、何もない空虚な空間に向かって「助けてください」と求めるのではありません。父なる神に向かって助けを求めるのです。助けてください、ということは私たち自身の弱さを認めることです。自分ではどうにもならないことを認めることです。この方以外に私を助けてくれる方はおられないことをそこで認めつつ、助けを願うのです。

聖書はイエス・キリストご自身も誘惑に遭われたことを私たちに教えます。この方も誘惑と闘われた生涯を送られたのです。私たちと同じように、誘惑に試練に苦しまれたのです。だからこそ、弟子たちにこの祈りを教えられました。この祈りは主イエスご自身が祈った祈りの言葉です。主イエスご自身が肌身離さず、いのっておられた言葉です。この祈りと共に、主イエスは父なる神を信じ、み旨に生きる歩みを貫かれたのです。私たちにもこの祈りが受け継がれました。主の祈りに何度でも戻って来たいのです。

March 18, 2017

先週説教要旨 2017.3.19

先週説教要旨 3月19日 

「ゆるしのなかで」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章12節

 

 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。主の祈りは私たちの生きることだけではなく、生きる上で私たちの重荷である罪の問題をも父なる神に祈るように私たちを招きます。

 父なる神、この方は私たちの「罪」という問題に踏み込んでこられる方です。「罪」とは関係の破れです。神様との関係、そして隣人との関係の破れです。私たちの父なる神は、私たちの罪をお赦しになるところからすべての業を始めてくださいました。つまり、神様の方から私たちとの関係を新たに作り出してくださった。それがイエス・キリストの十字架と復活です。私たちが自分の罪を自覚して、赦しを願う前から、私たちを憐れみ恵みを与えてくださったのです。

私たちはいま赦された者として、ここに集っているのです。赦された者として、新しい一週間へと送り出されていくのです。そして、赦された者として誰かを赦す者として歩むのです。

ゆるすことは、私たち自身を解放します。それはどういうことか。ゆるすということは手放すということ。ゆるせないことを、人を、自分でどうにかしようとするのではなく、神様にお委ねすることだからです。罪を赦す、ということは「あなたは悪くない」ということではないのです。似ているようで、違うことです。イエス様が言われたことは、「あなたの罪は許された」ということでした。罪は罪なのです。赦されなければ消えることはない。しかし、父なる神は赦すことをそのみ旨としてくださったのです。

March 11, 2017

先週説教要旨 2017.3.12

先週説教要旨 3月12日 

「必要な糧を求める」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章11節

 

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。「必要な糧」を求める祈りから始まる主の祈りの後半は、地に属する、つまり祈り手である私たちに関する祈りの言葉となっていきます。天に関することから始まり、地に関することへ向かうのは、十戒とも構造が似ています。天に属することの中に、私たち地なる者の歩みもまた置かれるのです。神が神とされ、神の支配が始まり、神の御心が成ることを待ち望む世界に、私たちの求めがあるのです。

 「必要な糧」を求める祈りは、私たちが今日も生きることを求める祈りです。飽き足りるまで食べることを求める祈りではありません。私たちの必要なものを私たち以上に知っていてくださる神に、必要な糧を求める祈りです。それは、命の源が、私たちを今日も生かしているのが、父なる神であることを主イエスとともに認めることです。そして、ここでも祈りは「わたしたち」となっていることは、私だけの必要な糧を求めるのではなく、いま飢えている人々の上にも命が与えられることを祈るのです。

 出エジプト記第16章において、イスラエルの民はマナという不思議な食べ物で養われました。イスラエルの民は、具体的に荒れ野の四十年を神様によって養われ、今日の命を生きることができたという経験を与えられたのです。イエス様は今日のみ言葉と同じマタイによる福音書第6章でこのように語ります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。

March 04, 2017

先週説教要旨 2017.3.5

先週説教要旨 3月5日 

「御心の成るところ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章10節b

  

 「御心が成るように」と祈る祈りは、主の祈りにおける第三の祈りです。神について祈る祈りの最後に置かれている言葉です。これまで「御名」について、「御国」について祈り、ここでは「御心」について祈られます。では、「御心」とは何でしょうか。他の訳でこの箇所を読むとこのように書かれています。「あなたの意志(おもい)が成りますように」。「御心」とは、神様のご意志であり、神様の思い、神様のご計画であると言えます。それが実現し、成就しますようにと祈るのです。

 私たちは、「私たちの思い」がかなえられることを願うことが、祈りだと思うかもしれません。しかし、イエス様が教えてくださった祈りは、私たちの思いではなく、神の思いが実現するように祈ります。私たちの思いは部分的で、即時的なものでしかないからです。神の思いは私たちの思いをも包んでいると信じて、祈るのです。けれども、私たちの思いと、この「御心」の間で私たちは絶えず葛藤します。御心がわからないときに、神様がどんな計画を私に抱いているかがわからないとき、私たちは迷いだし、不安に陥ります。主イエスもまた御心と戦った者の一人です。ゲツセマネの園で血の汗を滴らせながら祈ったのは、御心との戦いの祈りでした。しかし、イエス様は最後には「しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」と祈るのです。

 御心は、どこにあるか。何よりそれは、聖書の中に証され始めていることを私たちは知ることができます。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること。私たちの救いを御心としてくださっているということを。天になるように地の上にも、神はそのご計画を始めてくださる。そして、その「地」とは私を含めたこの世界です。神はこの私をも、御心を実現する器として用いてくださるのです。

February 25, 2017

先週説教要旨 2017.2.26

先週説教要旨 2月26日 

「天も地もあなたのもの」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章10節a

  

 「御国が来ますように」との祈りは、主の祈りの第二の祈りであり、主の祈りの中で最も短い祈りの言葉です。しかし、最も神秘に満ちた深い祈りであると言えます。なぜなら、「神の国が来る」「神の国が近づいた」、そのことはイエス様が地上での宣教の最初に語ったことであり、すべてであったからです。私たちも主イエスがお語りになったのと同じように、神の国を待ち望む者として、この祈りを祈るのです。

 「御国が来る」とは一体どういうことなのでしょう。「御国」とは原語では「あなたの王国」という意味です。あなた、とはもちろん主の祈りで呼び掛けている父なる神様のことです。そして、王国とは「支配」「統治」の意味です。つまり御国とは、神様が支配される世界、ということです。主イエスは、私たちが生きるこの世界が神の支配に覆われ始めていることを宣言されました。主イエスご自身が「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章21節)と語られた時、それは主イエスご自身が私たちの間におられ、私たちの真っただ中で隠れた形ですでに神のご支配を始めてくださっていることを指し示しているのです。

 しかし、この世界はいまだ人間のわがまま、お金や物、悪魔の支配のもとにあるように見えます。主イエスは言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。この第二の祈りは、神がこの世のあらゆる力に勝っておられるというもうひとつの現実、私たちの希望を見つめる祈りであるのです。

February 18, 2017

先週説教要旨 2017.2.19

先週説教要旨 2月19日 

「神の名を呼ぶ」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章9節

  

 主が教えてくださった祈りは、深い神秘に満ちた呼びかけで始まります。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけること。そこには聖なる矛盾がある。私たちの自由にできない高くにある天と、私たちに近くあってくださる父。しかし、キリストによってその二つはひとつとなった。天の父への連絡が授けられたのです。そして、呼びかけは「私の」ではなく「私たちの」と祈る。一人でこの祈りを祈るときでも、私たちは主の祈りを祈る共同体に結び付けられて祈るのです。

この呼びかけから始まる主の祈りを祈るとき、一体何が起こっているか。二つの大きなことが起こっています。それは、天におられる方を父とする、神の子であることを自ら告白し、公けに宣言すること。そして、それだけでなく、地にある私がすでに神の子として生き始める歩みがここから始まっているのです。神の子としての生き方、それはすなわち、「御名をあがめる」生き方です。神を神として生きることです。そして、そうすることによってまだ神を知らない者たちをもこの祈りに招いていく生き方であるのです。

最後に、神はどのような父でありたもうのでしょうか。それは「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)でイエス様が語られる父の姿に見出すことができます。そこには厳しい父の姿はありません。帰ってくる息子を家の戸口に立ってひたすら待ち続ける父の姿があります。私たちは主によってこの天なる父に呼びかけることが許されています。さあ、共に父と呼ぼうと招かれているのです。

February 11, 2017

先週説教要旨 2017.2.12

先週説教要旨 2月12日 

「神は祈りを聴かれる」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章5~15節

  

 今日の御言葉は、当たり前であるけれども私たちがすぐに忘れてしまう大切なことを知らせます。それは、祈りが神との対話である、ということです。それを忘れて、祈りが人に見せる見世物になっていないか。イエス様が地上を歩まれていた当時、決まった時刻になればどこでも大声で天に手をあげて祈るということがあったようです。しかし、それが人に見せるためのものであるならば、祈りは祈りでなくなってしまいます。

イエス様は弟子たちと共にいても、独りになって祈ることを常としておられました。そして、イエス様は本当に独りで祈ることを知っておられたからこそ、共に祈ることができたのだと思います。ですから、「隠れたところで祈れ」というイエス様の言葉は人々の前で祈ることを否定しないはずです。独りで祈るときも、神様よりも自分を意識してしまい、まっすぐに祈れないこともあるのです。祈る場所よりも、誰に祈っているのか、という祈りの姿勢を主イエスは問われるのです。独りで祈る時も、公で祈る時も、そこではやはり神に向けての祈りであります。

神は私たちが知る以上に私たちの必要をご存知の方です。この方に祈るのは、私たちの願かけのためではありません。この方と祈りにおいて交わるためです。祈りは「信仰の呼吸」とも呼ばれます。神はこのように祈りという交わりの連絡手段を与えてくださいました。そして、「主の祈り」という祈りの手本を示してくださいました。私たちは祈る時、独りであっても、一人ではありません。独りとして、神に向き合い、礼拝者として立つのです。

February 04, 2017

先週説教要旨 2017.2.5

先週説教要旨 2月5日 

「神様の報い」池田慎平牧師

マタイによる福音書第6章1~4節

  第六章から、イエス様は新しいことを語り始められます。イエス様が新しく語り始められたのは、「善行」についてです。他の訳では、「信仰深さ」「敬虔深さ」とあります。信仰があらわれる行いを、人の前でするなということについて厳しく注意される言葉です。そのなかで「施し」「祈り」「断食」について語られていますが、イエス様はとりわけこの三つを大切だと言っておられるのではありません。これらは「善行」という言葉を聞いて、ユダヤの人々が思い浮かべる代表的な言葉を用いて、イエス様が注意されたということです。

第一節「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。これが六章一八節までの主題です。そして、ここには「偽善者」という言葉が繰り返し登場します。「偽善者のようであってはならない」のです。施す、困っている人に親切にする、というとき、偽善者であってはならない。「偽善者」という言葉には、「俳優」という意味があります。「俳優」は観客を必要とします。そして、役の影に隠れて本当の自分を見せなくて済みます。他者にも自分にも役を演じればよいのです。イエス様はそういったときに人はすでに「観客からの称賛」という報いを受けていると言います。

しかし、あなたがたは「天の報い」を求めよ、というのです。この方は隠れたことを見ておられる父です。あなたが必死に隠したがっている本当の自分を見てくださる方です。この方の報いこそ、私たちに本当に必要な報いです。

January 28, 2017

先週説教要旨 2017.1.29

先週説教要旨 1月29日 

「教会の頭としてのキリスト」池田慎平牧師

エフェソの信徒への手紙第1章22~23節

 

 第五週はマタイによる福音書を読み続けることから離れて、「教会」という主題で聖書の御言葉に聞いてみたいと思います。本日お読みしたのは、「パウロの祈り」と小さな題がつけられている聖書箇所です。ある翻訳によると、「神のみこころを知るようにとの祈り」とあります。この祈りでパウロが祈るのは、感謝とそしてエフェソの教会、そして神を信じる者たちが「神を深く知るように」との祈りです。

神の御心はどこにあるのか。それはいつも信仰者が抱える問いです。しかし、パウロはもうすでに神は私たちにその御心を開いて見せてくださったことを丁寧に語るのです。パウロは祈ります。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(十九節)。そして、この「神の力」はイエス・キリストを通して確かに働かれました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(二十,二十一節)。そして、この神の力、神の栄光で満たされた方を、神は教会に頭(かしら)として与えてくださいました。

教会は、イエス・キリストが頭としておられる場所です。この方を通して、教会は神の栄光に輝いています。だから、私たちは毎週神を神とする礼拝を捧げます。この方からすべてが始まるのです。

January 21, 2017

先週説教要旨 2017.1.22

先週説教要旨 1月22日 

「敵を愛する」池田慎平牧師

マタイによる福音書第5章43~48節

 

 「山上の説教」と呼ばれるイエス様の御言葉を読み続けています。その中でも「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと、思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(五章一七節)とイエス様が律法について語られる言葉は、「あなたの敵を愛しなさい」という言葉で頂点を迎えます。

「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(四三,四四節)。旧約の律法には「敵を憎め」という言葉は記されてはいません。けれども、「隣人を愛せよ」という言葉で、自分の愛する範囲に境界線を作り、世界を狭くしている、ということが起こっている。自分に都合のいい隣人を愛し、敵を憎む。それは「異邦人でさえ、同じことをしている」と言うのです。

「あなたがたの父が完全であられるように」とイエス様は言われます。神は完全な愛で私たちを愛されます。聖書に登場する「愛」という言葉は、「エロース」「フィリア」、そして「アガペー」という3つのギリシア語であらわされますが、ここでの愛は愛すべき何の理由もなく愛する愛「アガペー」です。そして、その愛が完全に見出されるのは神の内であり、神の愛こそアガペーの愛であるのです。神に見つけていただき、神に敵対する者でさえ神の子としてくださった。愛によって、居場所を与えてくださった。それは愛によって私たちをそれまで縛っていたものから解放し、私たちが変わると信じたからです。その神の愚かさの中に教会は立ち続けてきました。愛された者は変わると信じて。

January 14, 2017

先週説教要旨 2017.1.15

先週説教要旨 1月15日 

「復讐から解放されて」池田慎平牧師

マタイによる福音書第5章38~42節

 

 今日読まれたイエス様の言葉には、小見出しに「復讐してはならない」とあります。イエス様が引用されている「目には目を、歯には歯を」という律法は、仕返しをやり過ぎることを禁じたものです。私たちの中にある「やられたらやり返したい思い」というものに終わりがないことを古くからの人々も知っていたのです。しかし、イエス様は新しい道を行かれます。「悪人に手向かってはならない」と、つまり復讐してはならない、と言われるのです。

「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。「左の頬をも」とはただ殴られる、ということを言っているのではなく、侮辱されることを甘んじて受けなさい、ということであるようです。復讐をやめるだけではありません。愛をもって積極的に敵意の中へ飛び込んでいくのです。このことはいったい誰にできるのでしょうか。

悪人に手向かわず、左の頬を差し出し、上着をも取らせる姿は、悪人に敗けたように見えるかもしれません。しかし、主イエスはそれによって勝利を手にされました。敵意の中で迫害を受け、侮辱され、最も惨めな仕方で殺されながら、その敵意に飲み込まれずそれに勝利なさいました。それこそ、イエス・キリストの十字架と復活です。ここに私たちが復讐の想いから解放される唯一の道があります。

January 07, 2017

先週説教要旨 2017.1.8

先週説教要旨 一月八日 

「真実の言葉で」池田慎平牧師

マタイによる福音書第五章三十三~三十七節

 

ここにイエス様が言っておられること、それは誓約、誓いを禁ずる、ということです。「誓い」は、私たちの生活において日常的なことであるかもしれません。教会でもまた誓いがなされます。洗礼という神様の子供として残りの生涯を捧げていくという誓約も行われます。それでは、このみ言葉を私たちはどう受け入れたらいいのでしょうか。

イエス様は丁寧に語ります。「天」、「地」、「エルサレム」にかけて誓うな、と。神の名を口に出さずとも、自分の言葉に真実味を与えるために様々な権威にかけて誓うという文化があったのです。面白いところでは自分の「頭にかけて」誓うということもあったのです。しかし、イエス様はそのいずれも神と関係しないところはないと言われるのです。自分の頭でさえも、それは神のものであります。それゆえに、私たちがたとえ自分を指して誓っても、どこにおいても神の御前にあって誓っている事実に変わりはないのです。イエス様はそのように問われるのです。そして、何をどのように誓おうが、この生ける神をはっきりと相手にしなさい。そう言われるのです。ですからここで誓うな、という言葉は文字通りではなく、神なしに誓うな、という意味に受け入れることが出来ます。

神なしに誓う、約束するということはありえないのです。なぜなら、私たちの中にその言葉を支える真実性も永遠性もないのです。神の助けによらなければ、私たちは真実の言葉を語りえない。 真実の言葉に守られて、私たちは約束することが出来るのです。

December 31, 2016

先週説教要旨 2017.1.1

先週説教要旨 一月一日 

「主に結ばれて生きる」池田慎平牧師

ヨハネによる福音書第十五章一~十節

 

新しい主の年二〇一七年の教会標語を「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(五節)に定めました。今年は教会創立五〇年を迎える年です。この時私たちは改めて主イエスに結ばれて生きるということはどういうことであるのか、問い直したいと思うのです。

ここで「わたしは」と語っておられるのは、他でもないイエス様です。「あなたがた」と呼ばれているのは、イエス様に従ってきた弟子たち、すなわち教会に集められた信仰者です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。主イエスと私たちの関係が端的に言い表されている言葉です。そして、十五章全体を読むと、イエス様はイエス様と私たちとの関係だけでなく、神様との関係も語られていることを忘れてはなりません。「わたしの父は農夫である」(一節)。実のならない枝は、神の手入れ、神の剪定がなされるというのです。

「実を結ぶ」というと、何か形のある結果を残さなくてはならない、と思うかもしれません。しかし、ここで言葉を変えて何度も繰り返されていることは「主につながっている」ことです。主につながり続ける、主の前にとどまり続ける、このことこそ「実を結ぶ」ことです。主につながることとあべこべのことをする思いを神は御言葉をもって剪定なされます。

また主イエスの語るぶどうの木のたとえで与えられるのは、この木は主イエスによる永遠の命によって育まれ、成長していくというイメージです。

December 24, 2016

先週説教要旨 2016.12.25

「神様からの贈り物」池田慎平牧師

マタイによる福音書第2章1~12節

 

クリスマスおめでとうございます。

私たちはこの時、限りなく神が私たちに近づいてこられたことを知ります。

私たち自身で解決しなければならないと思っていたこの世界に、神の独り子が与えられました。クリスマス、それは私たちが自らの罪のために失っていた神様との懸け橋を神の側からかけなおしてくださった出来事です。クリスマス、それは神の迫りです。私たちが逃げ出すこともできないほどに、そして逃げ出す必要もないほどに神が近づいてくださる。それがクリスマスの祝いなのです。

占星術の学者たちは星に導かれて、幼子イエス・キリストの元へとやってきました。彼らから新しい王の誕生の知らせを聞いたヘロデ王は「不安」を抱いたとあります。エルサレムの人々も同様でした。クリスマスの出来事が不安のうちに迎えられたことは、とても大事なことです。私たちは不安を覚えずにはこの方をお迎えできないほど、罪の中に浸りきっていたのです。しかし、もはやこの方は来られました。私たちの内に生まれたのです。占星術の学者たちは星が目的地で止まったのを見て、「喜びにあふれ」ました。神様からの最大の贈り物を受け入れるとき、そこには恐れを超えて、喜びがあるのです。

キリストへの道。ご自分の身を裂くようにして、神が私たちに近づいてきてくださいました。私たちの罪の中に飛び込んできてくださった。それを知らずにこの道を歩くことは出来ません。2016年、主がこの道を歩み続けるために、道の光、歩みを照らす灯としての御言葉を与えてくださった恵みに感謝いたします。

December 17, 2016

先週説教要旨 2016.12.18

「主を信じる者の幸い」池田慎平牧師

ルカによる福音書第一章三十九~五十六節

 

エリサベトとマリア。どちらも天使から突然の訪問を受けた二人です。

天使は突然やってきました。どちらも、その出来事にとまどいました。エリサベトは「身ごもって、五か月の間身を隠していた」し、マリアは天使に「どうして、そんなことがありましょう」とすぐにはその出来事を受け入れることができませんでした。しかし、二人は「神にできないことは何一つない」との天使の言葉によって背中を押され信じることができました。

 とまどいながらも、神の出来事を受け入れたところに、幸いが生まれました。

エリサベトがマリアに言った言葉は聖霊による真実に満ちています。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(四十五節)。

マリアもまた幸いを歌います。「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう」(四十八節)。なぜなら、神が私に目を留めてくださった、私を認めてくださったからです。

 「私の魂は主をあがめ」(四十六節)。「あがめる」という言葉は、「大きくする」という意味の言葉です。マリアにとって、神は自分のすべてを超える大きい方です。この方がすべてを超えて大きい方であることを受け入れること、これが信仰です。そして、これほどまでに大きな方がこの小さく貧しい私に目を留めてくださるのです。マリアの貧しさは、私の貧しさです。マリアの小ささは、私の小ささです。神はこの小さな私に目を止めてくださいました。この私を認めてくださいました。そのように神様はクリスマスの出来事を私たちの惨めさから始めてくださるのです。

December 10, 2016

先週説教要旨 2016.12.11

「クリスマスへの道備え」池田慎平牧師

マタイによる福音書第十一章二~十節

 

 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(三節)。

緊張感の伴う問いです。捕えられた先で、洗礼者ヨハネは自分の命を懸けて問います。ヨハネの人生は、自分の次に来られる方を自分の人生をかけて指差してきた歩みです。イエス様が「来るべき方」でなければ困るのです。

 イエス様の答えはこうでした。「わたしにつまずかない人は幸いである。」(六節)。

ここには「さいわい」という言葉が出てきます。山上の説教に登場する「さいわい」という言葉と同じ祝福の言葉です。イエス様は「おめでとう」と言われるのです。わたしにつまずかなくてよかった、わたしのもとに来れてよかった、おめでとう、と。

 クリスマスは私たちがイエス様のご降誕をお祝いする、すなわち私たちが「イエス様おめでとう」と喜び合うときです。しかし、それ以上に私たちが「おめでとう」と祝福される日です。ヨハネの切実な問いは、私たちの問いでもあります。ヨハネは孤独な牢獄の中で、悪の力に覆われそうになりながら問います。本当にあなたがそうなのですか、この世界をすっかり変えてくださるのですか。ヨハネの目にはあまりに力なき王のように見えたのです。しかし、神は私たちの期待や願望を越えて、この世界にイエス・キリストを送ってくださいました。この方だけが私たちを罪から解放してくださる方です。クリスマスは、そのように上からの「おめでとう」を素直に受け取る日です。神の祝福を素直に受け取る心備えをしてまいりましょう。

December 03, 2016

先週説教要旨 2016.12.4

「身を起こして頭を上げよ」池田慎平牧師

ルカによる福音書第二十一章二十五~二十八節

 待降節を迎えています。私たちはこの時、クリスマスにお生まれになる主イエスを待ち望むと共に、十字架につけられ、復活された主イエスが再びこの地上に来られるとの約束を待ち望んでいます。イエス様が再びこの地上においでになり、すっかりこの地上を変えてしまわれる。キリスト者の希望はここにあります。

 「人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来る」とあります。ここに、キリストが最初にこの世に来られた時のお姿と、もう一度来られるお姿との違いがあります。最初に来られた時、つまりクリスマスの出来事において、イエス様は何の力も持たない小さな赤ん坊として、しかも貧しい夫婦の間に生れ、飼い葉桶の中に寝かされました。その日、世界の片隅に救い主がお生れになったことは、神様によって特別にそれを示されたほんの僅かな人々の他は、誰も知らなかったのです。しかし主イエスがもう一度来られる時の様子はそれとは全く違うのです。主イエスは「大いなる力を帯びて」来られる。その「大いなる力」とは、神としての力です。神としてこの世界の全体を支配し、そして全ての人々を裁く力です。裁くというのは、救われる者と滅びる者とを分けることです。裁判官が裁判において有罪か無罪かを決めるように、審きにおいて人の救いと滅びとを決める、そういう権威と力をもって主イエスはもう一度来られるのです。

 私たちはそこで裁かれます。しかし、この裁きは私たちを解放する裁きです。解放の時が近い、だから主イエスは私たちに身を起こし、頭を上げろと言われます。希望をもって見上げるのです。

November 26, 2016

先週説教要旨 2016.11.27

「主の名によって来られる方」池田慎平牧師

マタイによる福音書第二十一章一~十一節

 エルサレム入城の出来事を読みました。イエス様が子ろばに乗って入城されることも、誰も知らない世界の片隅でお生まれになったことも、この新しい王が私たちの想像を越えて来られる方であることを証しする出来事です。私たちは自分たちの経験則の範疇で知っているのです。こうすればこうなるとか、こうしなければこうならないとか。その当時で言えば、王は馬に乗って入城されるし、王は王宮で誕生するのです。

しかし、この方は私たちの経験則を、方程式を軽々と越えて私たちの世界へと踏み込んでこられました。そこには戸惑いがあります。不安があり、躓きがあります。これまで自分たちで持っていた物差しでは測りえない出来事が起こったからです。それでも、人々はその王の到来をまずは喜んで迎えました。

主イエスは覚悟を持って来られました。ホサナと叫ぶ、この群れがひとたび同じ口で「十字架につけろ」と叫ぶのをすでに見ておられたのでしょうか。新しいものを迎える、その不安は次第に殺意へと変わっていきます。そのことを主イエスはすでに見抜いておられたのでしょうか。クリスマスの出来事を黙想するとき、またエルサレム入城の出来事を黙想するとき、そのように考えると胸がつぶれそうになります。こどもたちが棕櫚の木を手に取り、まだおぼつかない口調でホサナとたたえる姿を思います。牧歌的に描かれる情景のなかで、イエス様はどんな表情をされておられたのだろうと思うのです。私たちもまたこの方を新しい思いでお迎えしたいと思うのです。

November 19, 2016

先週説教要旨 2016.11.20

「すこやかな思いで」池田慎平牧師

マタイによる福音書第五章十七~二十九節

 生きてほしい。これがイエス・キリストの願いです。どうすれば、生きることができるか。生きることはいかなることか。それは、共に生きることです。人は一人では生きていけません。そして、人は一人では生きることができない、という命題は私たちが体得的に知っている事実としてだけではなく、聖書において神の言葉として語られている言葉でもあります。

イエス・キリストは、共に生きることを邪魔するものに対して徹底的にそれを排除なさろうとされます。そしてここで厳しく私たちの現実を突いているのが、「他人の妻を」という言葉に表される、私たちの薄暗い心であります。他者を「ものとして」見る、ということです。「みだらな思いで」というと、肉体関係を思い浮かべると思いますが、しかしそれはあくまでも手段であってその奥には、自分の所有としたい、相手を支配したい、独占したい、そういう思いがそこにあることをイエス・キリストは、見抜いておられるのです。この薄暗い思いは誰もが持つ思いであります。

 イエス様は共に生きることを祝福されます。「結婚」という形で結び合わされたものを祝福してくださいます。結婚、という言葉は聖書においては神とイスラエルの関係、キリストと教会との関係にも例えられます。そして、イエス・キリストはその約束の関係性に「侵入」する姦淫の罪を決してないがしろにはされないのです。私たちはこの罪をどうすることもできません。主イエスが神の子として、私たちの罪を引き受けるために、私たちの間に「侵入」して下さらない限りは。

November 12, 2016

先週説教要旨 2016.11.13

「神さまを信頼して生きる」池田慎平牧師

ダニエル書第六章十七~二十九節

 王様は夜が明けるや否や、ダニエルが投げ込まれた獅子の洞窟に駆けてゆきました。そして、穴の中に向かって祈るように呼びかけました。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」

お腹を空かせた獅子たちが住まう洞窟です。ダニエルは嚙み裂かれ、跡形も無くなってしまったでしょうか。しかし、そうではありませんでした。穴の奥からは王様の声に応えてダニエルの声が聞こえました。「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした」。王様がダニエルの体をくまなく調べると、本当に何の傷も受けていませんでした。聖書はそのことの理由を一言で説明します。「神を信頼していたからである」(二十四節)。

 神に信頼する、ということは「こんなに〇〇」というように見える私たちの歩みの中からも、神様が何事か起こしてくださることを信じることです。神様に信頼する、ということは、大丈夫、と言えることです。もちろん、何の根拠もなく「大丈夫」という人もいます。けれど、教会の人の言う「大丈夫」は、その背後に神様がおられることを信じている「大丈夫」です。そこには祈りがあります。祈ってくれているからこそ、大丈夫だよ、と言えるのです。この教会は大丈夫です。そして、私たちも誰かに「大丈夫」と声をかけることのできる者として歩みましょう。

Please reload

Be Inspired
bottom of page